宗教と歴史・・・(1)
投稿者: assaraamaaleicomnjp 投稿日時: 2004/05/02 22:16 投稿番号: [38517 / 118550]
通常の人間関係において、犯罪を起こそうと考えて、もしくは人が全て犯罪者であると考えて生活すると、これほど疲れるものはない。
犯罪に対する防衛策を考えるということはそういうことだと考える。例えば、疑心暗鬼に人を信用しないで、個人主義的に生きなければならないということは、一つの真理かもしれないが、これは、人と人との関係を、否定し、物事を信じることの大切さ、それによって得られるかもしれない心の安定を、放棄するものだと考える。
キリスト教社会に代表される、その教義から導かれる社会は、「性悪説」を前提としている。人は(蛇に唆されたりして)悪いことをする(原罪を持っている)ものであるから、人を疑いながら生活しなければならない。信じられるのはタダ一つ、創造主である「神」だけである・・・・。
しかし、日常で、このことを考えると、これは非常に極端な考え方であることはすぐに分る。私達はどこにいてもどこに暮らしていても、そこにもし、我々とは全く価値観の違う、同胞意識とか、人間同士の基本的な「繋がり」のようなものを漠然と信用しながら生活することを前提として生活している。
しかしそれを否定して、いつ、どこにでも「悪いやつ」がいるかも知れないから、常に自分をガードしうる社会制度や日常生活は自己責任で担保しなければならない。としたら、果たして、日常の生活は、円滑に作動するものだろうか・・・
つまり、私達の生活習慣は、ほとんどの場合、人は「自分と同じような」いい人間であると言うような「性善説」にしらずしらずにと言うか、必然的にその基盤を中心的な考え方においている。・・・つまり自分が悪い人間であると自覚している人間は、性善説なんかおっかなくて信じるわけには行かないことになる。
・・・ここに、自分自身の内面の問題として、普遍的な意味で「正直である」ということが、人間社会の前提として要求されることになる。
これは メッセージ 1 (topics_editor さん)への返信です.
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