RE:ポルポト体制
投稿者: speculator_lucky7 投稿日時: 2004/02/04 00:08 投稿番号: [31627 / 118550]
(「田中
宇レポート」より抜粋)
<ポルポト氏は本名をサロト・サルといい、1928年(一説には1925年)に生まれ、農家の9人兄弟の8番目だった。6歳の時、プノンペンの宮廷に勤める兄の家に預けられ、国民のほとんどが農民という当時のカンボジア社会の中では珍しく、都会の空気を吸って育った。
20歳の時、政府の勤労学生留学制度の奨学金をもらい、宗主国フランスに3年間留学し、そこで共産主義運動に首を突っ込んだ。中国のトウ小平やベトナムのホーチミンと同じコースである。クメールルージュの要人たちの多くは、フランス留学時代からのポルポト氏の仲間だった。
帰国後、フランス語の教員をしながら地下活動を続け、1960年にベトナム主導のインドシナ共産党から独立したカンボジア共産党(のちのクメールルージュ)を作り、リーダーとなった。
1965年頃には、文化大革命が始まろうとしていた中国に招かれ、毛沢東が農村を重視した社会主義政策を展開し、知識人など都市住民を弾圧していく様子を見た。都市住民を農村へと追い出し、知識人を大量処刑したポルポト氏の政策は、この時に中国から学んだといわれている。
1965年にベトナム戦争が始まると、カンボジアは米ソ対立の中で中立を保っていることが難しくなり、1970年にはアメリカの支援で親米派のロンノル将軍がクーデターを起こし、シアヌーク国王は北京に亡命した。
ポルポト氏は反政府ゲリラ活動を活発化した。1975年には、アメリカがベトナムから完全撤退するとともに、カンボジアのロンノル政権も崩壊し、クメールルージュが政権をとった。
●エリートは自分たちだけ、という共産主義者の本質
首相となったポルポト氏はこの直後から、かねて考えていた祖国の農村共産主義化を急速に進めた。
都市住民は、植民地時代からの支配構造の上に乗っている社会の寄生虫であるとして、全員を農村に強制移住させた。医者、教師、技術者などは、ブルジョア思想を持っているとして弾圧した。眼鏡をかけているだけで知識人とされ、処刑された人もいる。
また、通貨や、町々にあった市場を廃止し、企業もすべてつぶされた。休日はなくなり、余暇の音楽や映画、それから恋愛も禁止された。人々に許されたのはただ、毎日朝から晩まで農作業や機械を使わない土木工事にたずさわり、働くことだけだった。
ポルポト氏が政権をとって2-3ヶ月もしないうちに、何万人もの人が処刑され、飢えや病気で死んでいった。
ポルポト氏が目指したのは「人間の改造」だったとされる。腐敗しがちな従来の人間を「労働」によって改造することで、共産主義にふさわしい存在に変え、豊かな社会を作る、という考え方だったのではないか。最初からただ多くの人々を殺そうと思っていたわけではないはずだ。
そして、知識人は余計な知識が多すぎるし、金持ちは財産に未練があるので「改造」には適さない。最も改造しやすいのは、捨てるものが何もなく、知識もない、貧乏で純粋な農民や底辺の労働者だ、という理由で、「まず全員を貧農にする」という政策が実行された、と筆者は考える。この点で、中国の文化大革命も同じ手法をとった。
だが実は、こうした理論を考えたポルポト氏自身、6歳の時から首都で育った都会っ子であり、フランスに留学した幸運なエリートで、帰国後は教師をしていた。ポルポト氏は、自分と同じような存在に「ブルジョア」などのレッテルを貼り、何万人も殺していたのだ。
ポルポト氏だけでなく、当時のアジアの共産主義者の多くが、フランスやソ連留学の経験者である。(こうした歴史とはまさか関係ないと思うが、日本共産党の幹部に東大卒が多いことも気になる)
しかも共産主義の理論自体、植民地を支配する側のヨーロッパで生まれたものだ。ポルポト氏に「虐殺の思想」を吹き込んだのはフランス人だった、と考えることもできる。(吹き込んだ奴が悪いのではなく、犯行に及んだ奴が悪い、といえるかもしれないが)>
オイオイ、何にも歴史を知らんようだな。
一度プノンペンの「カスレシリン政治犯収容所」へ行って、虐殺された人達のシャレコウベで出来た「カンボジアの地図」を見て来い。
<ポルポト氏は本名をサロト・サルといい、1928年(一説には1925年)に生まれ、農家の9人兄弟の8番目だった。6歳の時、プノンペンの宮廷に勤める兄の家に預けられ、国民のほとんどが農民という当時のカンボジア社会の中では珍しく、都会の空気を吸って育った。
20歳の時、政府の勤労学生留学制度の奨学金をもらい、宗主国フランスに3年間留学し、そこで共産主義運動に首を突っ込んだ。中国のトウ小平やベトナムのホーチミンと同じコースである。クメールルージュの要人たちの多くは、フランス留学時代からのポルポト氏の仲間だった。
帰国後、フランス語の教員をしながら地下活動を続け、1960年にベトナム主導のインドシナ共産党から独立したカンボジア共産党(のちのクメールルージュ)を作り、リーダーとなった。
1965年頃には、文化大革命が始まろうとしていた中国に招かれ、毛沢東が農村を重視した社会主義政策を展開し、知識人など都市住民を弾圧していく様子を見た。都市住民を農村へと追い出し、知識人を大量処刑したポルポト氏の政策は、この時に中国から学んだといわれている。
1965年にベトナム戦争が始まると、カンボジアは米ソ対立の中で中立を保っていることが難しくなり、1970年にはアメリカの支援で親米派のロンノル将軍がクーデターを起こし、シアヌーク国王は北京に亡命した。
ポルポト氏は反政府ゲリラ活動を活発化した。1975年には、アメリカがベトナムから完全撤退するとともに、カンボジアのロンノル政権も崩壊し、クメールルージュが政権をとった。
●エリートは自分たちだけ、という共産主義者の本質
首相となったポルポト氏はこの直後から、かねて考えていた祖国の農村共産主義化を急速に進めた。
都市住民は、植民地時代からの支配構造の上に乗っている社会の寄生虫であるとして、全員を農村に強制移住させた。医者、教師、技術者などは、ブルジョア思想を持っているとして弾圧した。眼鏡をかけているだけで知識人とされ、処刑された人もいる。
また、通貨や、町々にあった市場を廃止し、企業もすべてつぶされた。休日はなくなり、余暇の音楽や映画、それから恋愛も禁止された。人々に許されたのはただ、毎日朝から晩まで農作業や機械を使わない土木工事にたずさわり、働くことだけだった。
ポルポト氏が政権をとって2-3ヶ月もしないうちに、何万人もの人が処刑され、飢えや病気で死んでいった。
ポルポト氏が目指したのは「人間の改造」だったとされる。腐敗しがちな従来の人間を「労働」によって改造することで、共産主義にふさわしい存在に変え、豊かな社会を作る、という考え方だったのではないか。最初からただ多くの人々を殺そうと思っていたわけではないはずだ。
そして、知識人は余計な知識が多すぎるし、金持ちは財産に未練があるので「改造」には適さない。最も改造しやすいのは、捨てるものが何もなく、知識もない、貧乏で純粋な農民や底辺の労働者だ、という理由で、「まず全員を貧農にする」という政策が実行された、と筆者は考える。この点で、中国の文化大革命も同じ手法をとった。
だが実は、こうした理論を考えたポルポト氏自身、6歳の時から首都で育った都会っ子であり、フランスに留学した幸運なエリートで、帰国後は教師をしていた。ポルポト氏は、自分と同じような存在に「ブルジョア」などのレッテルを貼り、何万人も殺していたのだ。
ポルポト氏だけでなく、当時のアジアの共産主義者の多くが、フランスやソ連留学の経験者である。(こうした歴史とはまさか関係ないと思うが、日本共産党の幹部に東大卒が多いことも気になる)
しかも共産主義の理論自体、植民地を支配する側のヨーロッパで生まれたものだ。ポルポト氏に「虐殺の思想」を吹き込んだのはフランス人だった、と考えることもできる。(吹き込んだ奴が悪いのではなく、犯行に及んだ奴が悪い、といえるかもしれないが)>
オイオイ、何にも歴史を知らんようだな。
一度プノンペンの「カスレシリン政治犯収容所」へ行って、虐殺された人達のシャレコウベで出来た「カンボジアの地図」を見て来い。
これは メッセージ 31620 (oixkozo さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552019567/bpa5a4a5ia5afipno9tbbh_1/31627.html