愛国心と、国家の運営
投稿者: welcome2thecivilization 投稿日時: 2004/12/01 18:19 投稿番号: [3361 / 5091]
>要するに、日本人は国家への責任感が喪失(喪失は言い過ぎですかね)している。だから、「国民として、国家への責任感を持て」という感じでしょうか。それなら、納得です。
私自身はむしろ、「国家への責任感を持て」という義務の問題ではなく、「日本を愛するなら、今は団結してもっと戦略的に動いてくれ」といった気持ちでしょうか。
まず(主に私自身のために)確認させて頂くと。
「国民国家」という概念は実はそんなに古くなくて、フランス革命に直接の起源を求める学者が多いようですね。革命で民主政権を樹立したものの、まず「では、フランス国民とは誰か?」という問題が出てきちゃったわけです。その政治範囲=フランス国家の中で、当時はフランス語を話す人間はパリ近郊に限られていたわけで、それまでの人々の自己認識は、国境とはルイ王朝の領地のことであり各自はその土地に属する領民に過ぎなかったのですから。そこで例の「自由・平等・同胞愛(←博愛は誤訳です)」という理念が登場したのです。それまでの単なる住民意識から、その「理念」に属するというイデオロギー(=特定の政治的立場に基づく考え方)の問題が加わったわけです。
つまり「国家」を運営するために「国民=国家」意識が必要になった、ということです。大雑把な説明では、こんなところでしょうか。(余談;逆にドイツの場合は同じドイツ語を話すという「国民=民族」意識が強かった。ビスマルク『第2帝国』以降ナチス〜第2次大戦に至るドイツの動きは、この文脈で理解する必要があるでしょうね)。
「国家」とは、多分に恣意的=政治的なもので、決して人間としての根元的なものではないのです。
「国民国家意識」とは、まず同胞意識が(先に)あって、社会的に同胞を守るために「国家」を運営しようとする意識のことである……と私は解釈しています。そして現代の世界情勢は──もし日本人に同胞愛があるならばですが──我々が好む好まざるに拘わらず、「国民国家意識」をもって「国家」を運営しようとしなければ、立ちゆかない状況に来ていると私は感じます。
最近の、『国旗・国家問題』とか『領土問題』とかの意見(イラクのトピにも何故か投稿がある)を見ていると、どうも同族意識としての「愛国心」と「国民国家意識」が混同され、国境が政治的に引かれているに過ぎないことが踏まえられていないようですね。jakejakeboysさんが(私もですが)、近頃顕著化している「愛国心の強制」に反感を感じるのも、押しつける側にその辺の認識が曖昧なままなので、そこに不自然さを感じるからだと思います。不自然さを。jakejakeboysさん(私もですが)のおっしゃる
>まあ、愛国心は必要ですが、その愛するべき「国の形」を議論しないで、「ともかく国を愛せよ」→「「国のために命を捨てろ」と言われるのには、多少反感を持つ者です。
の気持ちは、当然だと思います。
為政者が国民にしなければならないのは、
①カタく考えなくても我々には同胞意識がちゃんとあること(例えば船が沈没した時、まず自分の子供から助けようとするのは、人間としてごく自然なことでしょう?)を思い出させ、
②その仲間を守るためには意識的な団結も必要なこと、
「国民国家意識」を持って国を運営することの意味をこそ、説得するべきなのです。愛国心の押しつけは、却ってその根幹になるべき同胞愛から国民を遠ざけてしまう(誰でも自然に持っているのに)結果にしかならないと、私は危惧しています。
私が、イラクの諸問題を語るとき、常に「日本はどうすべきか」を絡めているのは、
・今回の問題が国家レベルで当たらないと何ら抜本的な解決にならないことを意識しているから
であると同時に、外国情勢は「国民国家意識」で考えるべきだからです。
(決してトピズレではないのです)。
そして、
・イラク戦争には日本にも責任がある
・「国民国家意識」で将来的戦略を考えると、中東での復興支援への参加が不可欠
と思っているのです。
私自身はむしろ、「国家への責任感を持て」という義務の問題ではなく、「日本を愛するなら、今は団結してもっと戦略的に動いてくれ」といった気持ちでしょうか。
まず(主に私自身のために)確認させて頂くと。
「国民国家」という概念は実はそんなに古くなくて、フランス革命に直接の起源を求める学者が多いようですね。革命で民主政権を樹立したものの、まず「では、フランス国民とは誰か?」という問題が出てきちゃったわけです。その政治範囲=フランス国家の中で、当時はフランス語を話す人間はパリ近郊に限られていたわけで、それまでの人々の自己認識は、国境とはルイ王朝の領地のことであり各自はその土地に属する領民に過ぎなかったのですから。そこで例の「自由・平等・同胞愛(←博愛は誤訳です)」という理念が登場したのです。それまでの単なる住民意識から、その「理念」に属するというイデオロギー(=特定の政治的立場に基づく考え方)の問題が加わったわけです。
つまり「国家」を運営するために「国民=国家」意識が必要になった、ということです。大雑把な説明では、こんなところでしょうか。(余談;逆にドイツの場合は同じドイツ語を話すという「国民=民族」意識が強かった。ビスマルク『第2帝国』以降ナチス〜第2次大戦に至るドイツの動きは、この文脈で理解する必要があるでしょうね)。
「国家」とは、多分に恣意的=政治的なもので、決して人間としての根元的なものではないのです。
「国民国家意識」とは、まず同胞意識が(先に)あって、社会的に同胞を守るために「国家」を運営しようとする意識のことである……と私は解釈しています。そして現代の世界情勢は──もし日本人に同胞愛があるならばですが──我々が好む好まざるに拘わらず、「国民国家意識」をもって「国家」を運営しようとしなければ、立ちゆかない状況に来ていると私は感じます。
最近の、『国旗・国家問題』とか『領土問題』とかの意見(イラクのトピにも何故か投稿がある)を見ていると、どうも同族意識としての「愛国心」と「国民国家意識」が混同され、国境が政治的に引かれているに過ぎないことが踏まえられていないようですね。jakejakeboysさんが(私もですが)、近頃顕著化している「愛国心の強制」に反感を感じるのも、押しつける側にその辺の認識が曖昧なままなので、そこに不自然さを感じるからだと思います。不自然さを。jakejakeboysさん(私もですが)のおっしゃる
>まあ、愛国心は必要ですが、その愛するべき「国の形」を議論しないで、「ともかく国を愛せよ」→「「国のために命を捨てろ」と言われるのには、多少反感を持つ者です。
の気持ちは、当然だと思います。
為政者が国民にしなければならないのは、
①カタく考えなくても我々には同胞意識がちゃんとあること(例えば船が沈没した時、まず自分の子供から助けようとするのは、人間としてごく自然なことでしょう?)を思い出させ、
②その仲間を守るためには意識的な団結も必要なこと、
「国民国家意識」を持って国を運営することの意味をこそ、説得するべきなのです。愛国心の押しつけは、却ってその根幹になるべき同胞愛から国民を遠ざけてしまう(誰でも自然に持っているのに)結果にしかならないと、私は危惧しています。
私が、イラクの諸問題を語るとき、常に「日本はどうすべきか」を絡めているのは、
・今回の問題が国家レベルで当たらないと何ら抜本的な解決にならないことを意識しているから
であると同時に、外国情勢は「国民国家意識」で考えるべきだからです。
(決してトピズレではないのです)。
そして、
・イラク戦争には日本にも責任がある
・「国民国家意識」で将来的戦略を考えると、中東での復興支援への参加が不可欠
と思っているのです。
これは メッセージ 3350 (jakejakeboys さん)への返信です.
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