「正義」の戦争?
投稿者: jakejakeboys 投稿日時: 2004/11/18 01:50 投稿番号: [2595 / 5091]
戦争・武力行使は、(緊急時であれ、平時であれ)全ての手段を尽くした上での「最終手段」として用いる手法でなくてはならない。
「人の生死」に関わることですから、刑法でも「死刑」は最終手段ですし、死刑以外での生殺与奪の権利は「緊急避難」など、ごく稀に認められているだけです。
(「死刑」と「戦争」を同列で扱うのは、正しくないですが。一応、例として…)
さて、「正義の戦争」とは、なんでしょうか?
古今東西、戦争を始める側(多くは侵略側)は、自分たちのことをこう言います。「正義」と。
そして、(戦争をしかけた側は)相手のことを、こう呼びます。「悪」と。
戦争をしかけられた側も、自分たちは正義で、相手が悪だ、と主張します。
では、このような場合、どちらが「正義」なのか?「正義」を測る「尺度」はあるのか?が問題の中心でしょう。
「正義」の概念は、宗教的・民族的な尺度等があり、かつ、(社会的ではない)個人的な尺度もあるわけで、これを中心にすると人それぞれの結論が出てきてしまうわけです。
そこで、普遍的な価値を持つ「尺度」が必要になるわけですが、今日の国際情勢を見る限りは中々、相応なものが見つからないですね。
私の個人的な意見では、「世界人権宣言」が多少の役に立てるのではないのだろうか、と考えています。
(単純に「人権尊重」=「正義」とはならないのかもしれませんが…)
さて、この「世界人権宣言」
英語では「Universal Declaration of Human Rights」と、書きます。
日本語訳は“世界”人権宣言となっていますが、Universalであって、WorldでもGlobalでもないのです。つまり、意義としては“普遍的な”人権宣言と捉えることもできますね。
「普遍的な人間の権利を主張している」と取れば、かなり、「善悪」「正邪」の尺度として有効に使えるものです。
ただし、私が言いたいのは、始めにも書きましたが、戦争は最終手段であって、「人権を盾にして戦争を始めても良い」と言っているわけではありません。
あくまでも、戦争が始まった場合に、善悪を測る基準として、有用なのではないだろうか、という話です。
「人の生死」に関わることですから、刑法でも「死刑」は最終手段ですし、死刑以外での生殺与奪の権利は「緊急避難」など、ごく稀に認められているだけです。
(「死刑」と「戦争」を同列で扱うのは、正しくないですが。一応、例として…)
さて、「正義の戦争」とは、なんでしょうか?
古今東西、戦争を始める側(多くは侵略側)は、自分たちのことをこう言います。「正義」と。
そして、(戦争をしかけた側は)相手のことを、こう呼びます。「悪」と。
戦争をしかけられた側も、自分たちは正義で、相手が悪だ、と主張します。
では、このような場合、どちらが「正義」なのか?「正義」を測る「尺度」はあるのか?が問題の中心でしょう。
「正義」の概念は、宗教的・民族的な尺度等があり、かつ、(社会的ではない)個人的な尺度もあるわけで、これを中心にすると人それぞれの結論が出てきてしまうわけです。
そこで、普遍的な価値を持つ「尺度」が必要になるわけですが、今日の国際情勢を見る限りは中々、相応なものが見つからないですね。
私の個人的な意見では、「世界人権宣言」が多少の役に立てるのではないのだろうか、と考えています。
(単純に「人権尊重」=「正義」とはならないのかもしれませんが…)
さて、この「世界人権宣言」
英語では「Universal Declaration of Human Rights」と、書きます。
日本語訳は“世界”人権宣言となっていますが、Universalであって、WorldでもGlobalでもないのです。つまり、意義としては“普遍的な”人権宣言と捉えることもできますね。
「普遍的な人間の権利を主張している」と取れば、かなり、「善悪」「正邪」の尺度として有効に使えるものです。
ただし、私が言いたいのは、始めにも書きましたが、戦争は最終手段であって、「人権を盾にして戦争を始めても良い」と言っているわけではありません。
あくまでも、戦争が始まった場合に、善悪を測る基準として、有用なのではないだろうか、という話です。
これは メッセージ 1 (topics_editor さん)への返信です.
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