清貧の国 日本
投稿者: dankai55 投稿日時: 2004/06/19 09:47 投稿番号: [203680 / 280993]
>私らの一回り上の世代は「ギブミーチョコレート」を知っている
>私らは「一粒の飯粒も残してはならん」と殴られた
>私らの一回り下の世代は「つぎはぎの服」など既に知らず<
昭和34〜35年ごろを境にこの国の様相が変わり始めたように記憶しています
テレビが普及し、自家用車がサラリーマンの手の届くところに来た、
化繊衣料品が巷に溢れ、田畑で大量の農薬が使われるようになった
そう 生活があらゆる面で 便利になり始めた
我が家は農家ではない、田舎町の町家、子供たちは食事と就寝以外は家には居ない
(邪魔に成る)
それでも私には小3位から朝飯を炊く仕事が与えられていました
釜戸に古新聞で火を入れ、焼け棒くい、折れ枝、まき、順に火力を増して飯を炊く
燃料は只(無料)のものばかり
日曜には1週間分のまき割り、父が調達してきた木材を鋸で引き、斧で割る
(手斧ではない本物の斧、両手で頭上から振り下ろし、出来れば一撃で割る、小3時点では体力不足でした)
どれだけ割るかは私の判断、家人は一切指図をしない、
足りなければ週末に飯が炊けなくなる、7人分1升4合の飯が炊けない
言われなくとも責任を知る
子供はとにかく腹がすく
飯以外の食べ物と言えば芋(さつま芋)と干し魚、蒸しても、焼いても、芋は芋、魚は魚
飽きが来る
町郊外、様々の木の実、草、時には人様の家の庭木から失敬する事も有る
用水で、たにし、ふな、ドジョウ、うなぎ、なまず、を獲る
季節によってはウサギ、きじ、かもを手掴みで獲る、みんな母親に料理させて食った
信仰の薄かった母親がナンマンダブツを唱えるのはそいつらをさばくときだけ
ぶつぶつ文句を言いながらそれでも子がかわいいのか
必ず食わしてくれた
夏になるとドジョウの蒲焼が大好きで、暇さえあれば早朝ドジョウ獲り
母親はめんどがってよう作らん、大きい物だけよってはべん屋(かまぼこ屋)へ持っていく
バケツ1杯と10本の蒲焼、物々交換、小さいものは柳川にして食う(わしこれ嫌い)
ドジョウを獲らん日は自転車で4〜5キロ離れた浜へ行く
在所の人が網を引いとる中へ勝手に混ざる、網が上がるとちゃんと小魚を分けてくれる
(あじ、こぞくら、子ダイ、シマダイ、ねじら、たこ、いわし、子さば、さより、子はちめ)
あんまり金にはならんものばかり笊一杯貰って帰る
味噌汁の具、煮付け、あまったものはごちゃ混ぜのミンチにする
ミンチは味噌汁か薩摩揚げがすきやった
浜へ行けば蛤がいつでも獲れた、其の頃はアサリなんぞは持って帰らなかった
夏休みマッチだけ持って浜へ出かける
飯も小遣いも、水も持たん
水は道々湧き水が有る、遊びながらあさり、蛤を取る
穴を掘り、火を起こし、トタン板を被せ貝を焼く
海水だけが調味料、旨かった、腹いっぱい食えた
いわゆるお菓子が食いたくとも現金が必要、お金は貰えないのが当たり前の時代
自分で稼ぐ
町に石亀を大量に飼育している家があった
逃げ出した亀を捕まえて持ってゆくと大小に関わらず一匹10円くれた
時には養殖池から直接盗むやつも居た
亀の餌として殿様蛙を5匹10円(5匹単位)捕まえて売った
時には食用がまがえる1匹20円で売った、ほかの蛙は金にはならん
田植えの頃へび買いがくると、しまへび1匹10円、マムシは1匹50円(大金だった)で売った
へびは当然手掴みで獲った、マムシの手掴みなど無謀のきわみ、でも50円の金に引かれた
田の水を止める頃、ヤツメウナギ買いが来る
体長20〜25センチ、真っ白の体に真っ赤な唇
頭のほうから左右対称に黒い点が尻方向に向かって並ぶ
背には黒い線のようなヒレがあり尻尾まで続く
群れの中に足を入れると食いついてくる
恐ろしく痛いので誰も獲らん、誰も獲らんから金になる
ざるで掬いバケツ1杯50円、重労働の上、足は血だらけ
生き物の居らん冬は、くず鉄、赤がね(銅線)拾い、ぼろ買いに売る、
小6の頃には大人ほどの体があったので、スコップ担いで家々を回る
大人の半額で雪下ろしをさせて貰う、余り一生懸命にやらないのがコツ
お金のほかにお茶やお菓子が出る、時にはコーヒーにケーキと言う事も有る
頭の悪いガキドモと遊んどるより何ぼもまし
親父は朝から夜遅くまで黙々と商売し、母は親父を手伝いながら家事をする
商売から帰ってくるといろんな物を持ち帰ってくる
物々交換したものや、貰ったものも有る
お婆はありとあらゆる物を整理し、始末し、なんらかに役立てる、
僅かに出る残飯は猫の餌になる、猫は決してペットでは無かった、
ねずみを獲る、追い払うと言う役目を担った家族であった
わしと
>私らは「一粒の飯粒も残してはならん」と殴られた
>私らの一回り下の世代は「つぎはぎの服」など既に知らず<
昭和34〜35年ごろを境にこの国の様相が変わり始めたように記憶しています
テレビが普及し、自家用車がサラリーマンの手の届くところに来た、
化繊衣料品が巷に溢れ、田畑で大量の農薬が使われるようになった
そう 生活があらゆる面で 便利になり始めた
我が家は農家ではない、田舎町の町家、子供たちは食事と就寝以外は家には居ない
(邪魔に成る)
それでも私には小3位から朝飯を炊く仕事が与えられていました
釜戸に古新聞で火を入れ、焼け棒くい、折れ枝、まき、順に火力を増して飯を炊く
燃料は只(無料)のものばかり
日曜には1週間分のまき割り、父が調達してきた木材を鋸で引き、斧で割る
(手斧ではない本物の斧、両手で頭上から振り下ろし、出来れば一撃で割る、小3時点では体力不足でした)
どれだけ割るかは私の判断、家人は一切指図をしない、
足りなければ週末に飯が炊けなくなる、7人分1升4合の飯が炊けない
言われなくとも責任を知る
子供はとにかく腹がすく
飯以外の食べ物と言えば芋(さつま芋)と干し魚、蒸しても、焼いても、芋は芋、魚は魚
飽きが来る
町郊外、様々の木の実、草、時には人様の家の庭木から失敬する事も有る
用水で、たにし、ふな、ドジョウ、うなぎ、なまず、を獲る
季節によってはウサギ、きじ、かもを手掴みで獲る、みんな母親に料理させて食った
信仰の薄かった母親がナンマンダブツを唱えるのはそいつらをさばくときだけ
ぶつぶつ文句を言いながらそれでも子がかわいいのか
必ず食わしてくれた
夏になるとドジョウの蒲焼が大好きで、暇さえあれば早朝ドジョウ獲り
母親はめんどがってよう作らん、大きい物だけよってはべん屋(かまぼこ屋)へ持っていく
バケツ1杯と10本の蒲焼、物々交換、小さいものは柳川にして食う(わしこれ嫌い)
ドジョウを獲らん日は自転車で4〜5キロ離れた浜へ行く
在所の人が網を引いとる中へ勝手に混ざる、網が上がるとちゃんと小魚を分けてくれる
(あじ、こぞくら、子ダイ、シマダイ、ねじら、たこ、いわし、子さば、さより、子はちめ)
あんまり金にはならんものばかり笊一杯貰って帰る
味噌汁の具、煮付け、あまったものはごちゃ混ぜのミンチにする
ミンチは味噌汁か薩摩揚げがすきやった
浜へ行けば蛤がいつでも獲れた、其の頃はアサリなんぞは持って帰らなかった
夏休みマッチだけ持って浜へ出かける
飯も小遣いも、水も持たん
水は道々湧き水が有る、遊びながらあさり、蛤を取る
穴を掘り、火を起こし、トタン板を被せ貝を焼く
海水だけが調味料、旨かった、腹いっぱい食えた
いわゆるお菓子が食いたくとも現金が必要、お金は貰えないのが当たり前の時代
自分で稼ぐ
町に石亀を大量に飼育している家があった
逃げ出した亀を捕まえて持ってゆくと大小に関わらず一匹10円くれた
時には養殖池から直接盗むやつも居た
亀の餌として殿様蛙を5匹10円(5匹単位)捕まえて売った
時には食用がまがえる1匹20円で売った、ほかの蛙は金にはならん
田植えの頃へび買いがくると、しまへび1匹10円、マムシは1匹50円(大金だった)で売った
へびは当然手掴みで獲った、マムシの手掴みなど無謀のきわみ、でも50円の金に引かれた
田の水を止める頃、ヤツメウナギ買いが来る
体長20〜25センチ、真っ白の体に真っ赤な唇
頭のほうから左右対称に黒い点が尻方向に向かって並ぶ
背には黒い線のようなヒレがあり尻尾まで続く
群れの中に足を入れると食いついてくる
恐ろしく痛いので誰も獲らん、誰も獲らんから金になる
ざるで掬いバケツ1杯50円、重労働の上、足は血だらけ
生き物の居らん冬は、くず鉄、赤がね(銅線)拾い、ぼろ買いに売る、
小6の頃には大人ほどの体があったので、スコップ担いで家々を回る
大人の半額で雪下ろしをさせて貰う、余り一生懸命にやらないのがコツ
お金のほかにお茶やお菓子が出る、時にはコーヒーにケーキと言う事も有る
頭の悪いガキドモと遊んどるより何ぼもまし
親父は朝から夜遅くまで黙々と商売し、母は親父を手伝いながら家事をする
商売から帰ってくるといろんな物を持ち帰ってくる
物々交換したものや、貰ったものも有る
お婆はありとあらゆる物を整理し、始末し、なんらかに役立てる、
僅かに出る残飯は猫の餌になる、猫は決してペットでは無かった、
ねずみを獲る、追い払うと言う役目を担った家族であった
わしと
これは メッセージ 203303 (dankai55 さん)への返信です.
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