イラクで日本人拘束

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高遠さんに捧ぐ 特攻の母 鳥浜トメ

投稿者: someya_kiiti 投稿日時: 2004/05/26 16:29 投稿番号: [188103 / 280993]
1945年(昭和20年)3月、硫黄島を占領した米軍は、いよいよその矛先を沖縄に向けてきました。

この戦いに負けたら日本の敗北は決定的になるために、沖縄を絶対死守する作戦が取られました。

沖縄特攻作戦です。


爆弾を搭載した機体もろとも敵艦に体当たりする肉弾攻撃です。

世界の戦争史上類を見ないこのすさまじい攻撃を遂行したのは、わずか20歳前後の若者でした。

この攻撃のため最前線基地となったのは太刀洗陸軍飛行学校分教所のあった鹿児島県の知覧でした。

ここには、特攻隊の隊員から「お母さん」と慕われた鳥浜トメがいました。

トメと飛行兵との交流が始まったのはトメの「富屋食堂」が1942年(昭和17)、軍の指定食堂になってからでした。

しかし、その交流も沖縄特攻作戦が始まると別離の悲しい体験に変わっていきました。

全国から集まってくる若者たちはわずか4,5日の滞在で2度と帰らない沖縄の攻撃に出かけていくからです。

トメ「特攻の方々が征かれるときはにっこりわらって、
    嫌とも言わず、
    涙ひとつおとされませんでした。
    さぞ肉親の方々にも逢いたがっただろうに、
    日本を勝たせるために、早く征かなければと、
    ただそればかり言っていました」    (村上薫編「知覧特別攻撃隊」

純真で「幼児のように優しかった」特攻隊員をトメは、親身になって世話をしました。

彼らが注文した食事が終わると、お茶やボタ餅,寿司や夜食、焼酎やつまみを出してあげました。

農家から取り寄せた新鮮な野菜や卵を食べさせたり,物不足で手に入らない石鹸や薪を買ってきて入浴させたり、
託された遺書の送付や遺族に手紙を書いて知らせるなど、尽くしました

それでも「明日には命を捧げていく方からはお金はいただけない」という気持ちからトメはほとんどお金をとることがありませんでした

そのため、自分の持っていた着物や飾り棚、衝立などの調度品、家財道具までうりはらってお世話をしてきました。

特攻隊のによる決死の戦いも功を奏さず、日本は敗戦を迎えました。

それとともに、特攻隊に対する世間の目は冷たくなっていきました。

しかし、トメの隊員たちへの追慕は少しも変わりませんでした。

「国のために死んでいったあの若者たちを忘れさせてはならない」

と1人で飛行場の片隅に小さな棒切れを立て、墓参りを続けていました。

やがて遺族や関係者を動かし、1955年(昭和30年)9月には「特攻平和観音堂」を建立、毎日花と線香を持ち、慰霊と清掃に通う日々が続きました。

今から十年前には、観音堂のよこに「知覧特効平和会館」が建設されました。

ここのは特攻隊員の遺書や遺品が数多く陳列されています。

現在では全国から大勢の人々が訪れて、特攻隊員の姿に目頭を熱くしています。

これも戦後、トメが特攻隊の人々の慰霊と顕彰に身を捧げてきた献身的努力のたまものです。

「特攻の母」として慕われ続けたトメは、平成4年,八十九歳でなくなりました

   (梶栗勝敏)著
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