>文革って 何ですか?
投稿者: wmbyq010 投稿日時: 2004/09/05 10:29 投稿番号: [9906 / 66577]
中国史上稀にみる10年にわたる大動乱 [現代中国ライブラリィ]
文化大革命 プロレタリア文化大革命 文 革
1958年の大躍進運動の失敗後、毛沢東は自己批判を迫られ、党主席としての権力は棚上げされた。これを契機に劉少奇(国家主席)や訒小平(総書記)が実権を握った。彼らは市場的メカニズムを一部導入することで、農民や労働者のやる気を引き出すことで経済の立て直しをはかろうとした。
しかし、農村を中心に資本主義的風潮が蔓延したとする毛沢東は、「継続革命」を主張、プロレタリア文化大革命による奪権闘争へと向かった。
文革は文芸界から始まった。65年11月、のちの「四人組」の1人、姚文元が「『海瑞の免官』を評す」を発表。ここに文革の口火が切られた。66年5月、毛沢東の林彪宛書簡「5・7指示」、中央政治局拡大会議で「5・16通知」を採択。続いて「中央文革小組」が設置され、組長に毛沢東側近の陳伯達、顧問に康生、副組長に江青、王任重、劉志堅、張春橋、組員に王力、関鋒、戚本禹、姚文元らが就き、文革は本格化した。
6月、北京大学の聶元梓らが初の大字報(壁新聞)で大学と北京市当局を攻撃。紅衛兵が組織され、「劉・訒実権派」への攻撃が始まった。8月、清華大学附属中学で紅衛兵による毛沢東支持の「造反」が起き、毛沢東の天安門での接見には全国から100万の紅衛兵が結集した。同じく8月の8期11全中会で、「プロレタリア文化大革命についての決定」が採択された。
翌67年1月、上海で文革派が奪権(1月革命)。そして、2月に「上海人民公社」(上海コミューン)が成立。これに対して、譚震林、葉剣英、李先念、徐向前、聶栄臻らが中央文革小組の行動を行き過ぎと批判(2月逆流)したが、こうした批判は封じ込められた。7月20日、武漢において、文革派の王力らが実権派の大衆組織「百万雄師」によって監禁され、事後の弾圧で10万人以上が死傷するという「武漢事件」が発生した。
68年には全国で「革命委員会」が結成されるなど、文革は頂点に達した。68年10月の8期12中全会で、劉少奇が党籍剥奪となり最終的に失脚した。そして、69年4月の9全大会で林彪(党副主席)を毛沢東の後継者に指名することで、文革派が権力を掌握、その成果を一応総括した。
文革のもう一つの特徴は、「ソ連修正主義」の打倒を掲げたことである。この時期、中ソ論争は抜き差しならぬ対立に発展し、69年には珍宝島で中ソ両軍の軍事衝突が起きている。
71年9月、後継者の林彪が毛沢東暗殺を企て失敗、ソ連に逃亡中モンゴル国境付近で墜死するという「林彪事件」が起きた。これを機に林彪グループは脱落。73年8月の10全大会では、文革の主導権は毛沢東夫人の江青や張春橋、王洪文、姚文元の「四人組」が握ることになる。10全大会以降、周恩来は国務院を中心に経済の再建に取り組もうとしたが、四人組は「批林批孔」運動(林彪・孔子批判)で周恩来追い落としをはかろうとした。
76年1月に周恩来が死去。4月には周恩来を追悼する大衆による反四人組の「第1次天安門事件」が起こる。この事件で、当時副総理として復活していた訒小平が再び失脚。しかし、9月に毛沢東が死去したことで、四人組は急速に力を失っていった。翌10月、四人組が華国鋒、汪東興ら文革右派によって逮捕される。
華国鋒は毛沢東の遺言(君に任せれば安心だ)を盾に翌日、党主席に就任した。77年7月、実権派の烙印を押され2度失脚していた訒小平が再復活。8月の11全大会で「文革終結宣言」が出され、ここに10年にわたった中国史の中でも稀に見る大動乱に終止符が打たれた。80年12月には、人民日報が「毛主席は文化大革命で過ちを犯した」と、初めて毛沢東を名指しで批判。
81年6月の11期6中全会で、「歴史決議」(建国以来の党の若干の歴史問題についての決議)が採択され、公式に文革は誤りとされた。「文化大革命はいかなる意味でも革命や社会進歩とはいえない」とし、「指導者が誤って発動し、反革命集団に利用され、党と国家、各民族人民に重大な災難をもたらした内乱」と断定された。毛沢東については、「文革では重大な誤りを犯したが、功績の方が誤りよりも大きい。功績第一、誤り第二である」とされた。華国鋒が失脚し、胡耀邦が党主席就任。
文革は中国人民にとっては大きな災厄だったが、一方で、当時のベトナム反戦運動と結びついて毛沢東思想が世界的なブームとなった。「造反有理」(反乱には道理がある)という毛沢東の言葉は、わが国の学生運動にも大きな影響を与えた。中国国内では、文革後、文学界や映画界を中心に批判と総括が徹底して行われ、その過程で数多くの佳作が生まれた。
と言う事で・・・。
文化大革命 プロレタリア文化大革命 文 革
1958年の大躍進運動の失敗後、毛沢東は自己批判を迫られ、党主席としての権力は棚上げされた。これを契機に劉少奇(国家主席)や訒小平(総書記)が実権を握った。彼らは市場的メカニズムを一部導入することで、農民や労働者のやる気を引き出すことで経済の立て直しをはかろうとした。
しかし、農村を中心に資本主義的風潮が蔓延したとする毛沢東は、「継続革命」を主張、プロレタリア文化大革命による奪権闘争へと向かった。
文革は文芸界から始まった。65年11月、のちの「四人組」の1人、姚文元が「『海瑞の免官』を評す」を発表。ここに文革の口火が切られた。66年5月、毛沢東の林彪宛書簡「5・7指示」、中央政治局拡大会議で「5・16通知」を採択。続いて「中央文革小組」が設置され、組長に毛沢東側近の陳伯達、顧問に康生、副組長に江青、王任重、劉志堅、張春橋、組員に王力、関鋒、戚本禹、姚文元らが就き、文革は本格化した。
6月、北京大学の聶元梓らが初の大字報(壁新聞)で大学と北京市当局を攻撃。紅衛兵が組織され、「劉・訒実権派」への攻撃が始まった。8月、清華大学附属中学で紅衛兵による毛沢東支持の「造反」が起き、毛沢東の天安門での接見には全国から100万の紅衛兵が結集した。同じく8月の8期11全中会で、「プロレタリア文化大革命についての決定」が採択された。
翌67年1月、上海で文革派が奪権(1月革命)。そして、2月に「上海人民公社」(上海コミューン)が成立。これに対して、譚震林、葉剣英、李先念、徐向前、聶栄臻らが中央文革小組の行動を行き過ぎと批判(2月逆流)したが、こうした批判は封じ込められた。7月20日、武漢において、文革派の王力らが実権派の大衆組織「百万雄師」によって監禁され、事後の弾圧で10万人以上が死傷するという「武漢事件」が発生した。
68年には全国で「革命委員会」が結成されるなど、文革は頂点に達した。68年10月の8期12中全会で、劉少奇が党籍剥奪となり最終的に失脚した。そして、69年4月の9全大会で林彪(党副主席)を毛沢東の後継者に指名することで、文革派が権力を掌握、その成果を一応総括した。
文革のもう一つの特徴は、「ソ連修正主義」の打倒を掲げたことである。この時期、中ソ論争は抜き差しならぬ対立に発展し、69年には珍宝島で中ソ両軍の軍事衝突が起きている。
71年9月、後継者の林彪が毛沢東暗殺を企て失敗、ソ連に逃亡中モンゴル国境付近で墜死するという「林彪事件」が起きた。これを機に林彪グループは脱落。73年8月の10全大会では、文革の主導権は毛沢東夫人の江青や張春橋、王洪文、姚文元の「四人組」が握ることになる。10全大会以降、周恩来は国務院を中心に経済の再建に取り組もうとしたが、四人組は「批林批孔」運動(林彪・孔子批判)で周恩来追い落としをはかろうとした。
76年1月に周恩来が死去。4月には周恩来を追悼する大衆による反四人組の「第1次天安門事件」が起こる。この事件で、当時副総理として復活していた訒小平が再び失脚。しかし、9月に毛沢東が死去したことで、四人組は急速に力を失っていった。翌10月、四人組が華国鋒、汪東興ら文革右派によって逮捕される。
華国鋒は毛沢東の遺言(君に任せれば安心だ)を盾に翌日、党主席に就任した。77年7月、実権派の烙印を押され2度失脚していた訒小平が再復活。8月の11全大会で「文革終結宣言」が出され、ここに10年にわたった中国史の中でも稀に見る大動乱に終止符が打たれた。80年12月には、人民日報が「毛主席は文化大革命で過ちを犯した」と、初めて毛沢東を名指しで批判。
81年6月の11期6中全会で、「歴史決議」(建国以来の党の若干の歴史問題についての決議)が採択され、公式に文革は誤りとされた。「文化大革命はいかなる意味でも革命や社会進歩とはいえない」とし、「指導者が誤って発動し、反革命集団に利用され、党と国家、各民族人民に重大な災難をもたらした内乱」と断定された。毛沢東については、「文革では重大な誤りを犯したが、功績の方が誤りよりも大きい。功績第一、誤り第二である」とされた。華国鋒が失脚し、胡耀邦が党主席就任。
文革は中国人民にとっては大きな災厄だったが、一方で、当時のベトナム反戦運動と結びついて毛沢東思想が世界的なブームとなった。「造反有理」(反乱には道理がある)という毛沢東の言葉は、わが国の学生運動にも大きな影響を与えた。中国国内では、文革後、文学界や映画界を中心に批判と総括が徹底して行われ、その過程で数多くの佳作が生まれた。
と言う事で・・・。
これは メッセージ 9896 (koukiyumeno さん)への返信です.
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