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レス忘れ。

投稿者: sintyou5 投稿日時: 2006/07/01 14:39 投稿番号: [56361 / 66577]
そう言えば、一人忘れていた。大先生がいたっけ。

>織田信長は少なくとも戦争の相手を虐殺したのであり>>

他国の重箱突きは大得意のくせに、日本史の事は、何も知らんのか?

・織田信長・1534〜1582:戦国・安土桃山時代の優れた武将であると同時に、日本史上に類を見ない残虐な殺人鬼でもある。

織田信長は、なによりその残虐さで知られる人物である。1574年元旦、信長の本拠地である岐阜城に、京都や隣国の諸将が年賀の挨拶に参上した。この頃、信長の支配地は尾張、近江、越前、畿内に限られていたが、すでに日本国の王のように振る舞っていたことがわかる。祝宴が終わり、来客者が退出したあと、信長の直属の馬廻り衆だけで、内輪の祝宴がはじまった。そのとき、“珍奇なお肴(さかな)”が披露されたのである。その肴(さかな)というのが、浅井父子と朝倉義景の首であった。それもただの首ではない。頭蓋骨を漆(うるし)で綺麗に塗り固めた上、金粉までふりかけてあった。背筋が凍るほどの念の入れようである。
この哀れな首の主人は、前年に信長に滅ぼされた浅井家と朝倉家の当主たちであった。信長は、自分の妹 お市を浅井家に嫁がせていたが、その浅井家に裏切られたため、恨みが増幅していたのである。それにしても、斬首されたままの首でさらされる方が、まだ慈悲深い。わざわざ、漆と金粉で美しく飾って笑いものにするというのが、恐ろしいのだ。理解しがたい信長の心理である。

比叡山殲滅:信長公は叡山におしよせ、根本中堂をはじめすべての建物を焼き払われた。老若男女みな、あわてふためき逃げまどった。それを4万の兵が、ときの声をあげながら攻めたてる。僧、童、学僧、上人、すべて捕えてきては首をはね、信長公にお目にかけるのである。これは、叡山でも知られた高僧などと、いちいち報告するのであった。このほかにも、美女、童も数え切れぬほど捕らえて、信長公の前に連れてこられる。「悪僧は首をはねられてもいたしかたありません。わたしはお許しください」と口々に嘆願するのも、許さず、ひとりひとり首を打ち落とされた。目もあてられないありさまだった。数千の死体があたりかまわずころがり、まことに哀れななりゆきであった。

長島一向一揆:織田勢は7月13日に布陣を調え、14日より全軍を3手に分けて攻撃を開始した。柴田・佐久間隊を北西の香取口より中州に攻め入らせ、信忠隊を北東の市江に留めて予備隊として備えさせ、自らは丹羽隊を従わせて北方から攻め込んだ。翌15日には滝川・九鬼の水軍が長島の南方に到着、信雄も大船を率いて参陣した。これら6百艘にも及ぶ船団は中州を取り囲んで水路を封鎖し、一揆勢を追い込んでいった。
『要塞』長島にて抗する一揆勢は3万人。僧兵なども含まれるが、その大半は長島の住民である。一揆勢は陸・海の両面から包囲網を狭められていき、長島・篠橋・大鳥居・屋長島・中江の5城砦に立て籠もった。信長は長島一帯の包囲を完成させたうえで、これらの城砦を手分けして攻めさせた。
信長は、この戦いにおいて捕えた者、投降してきた者に対して『根切り』『根絶やし』と呼ばれる皆殺しを指示している。しかも僧・兵・民衆を問わずの殲滅である。>>

もう一回、よい子の歴史で勉強したまえ。


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