Re: 補足しかしなかったトカゲ氏の原点
投稿者: kitaguninosaru1 投稿日時: 2006/01/13 15:38 投稿番号: [50005 / 66577]
「前例」のあるなしで、矛盾と思われそうな原文(メッセージNo.49974)
>彼等の反応を見ていると、いかなる相手であれ反中国的発言に対し最終的には理論をかなぐり捨て罵倒に切り替わっており、例外はありません。
むろん、日本側にも問題のある発言があるのは事実です。しかし、どのような真摯な批判でも最終的には中国側からの罵倒に推移しています。
例外はありますよ。だから、わたしも初期の頃は穏やかに話し合いをしていたこともありますが、そのような相手は途中で居なくなり、古くからのつきあいは結局話題がどうしても行き着くところまで行き着き、したがって今の様相を呈しているようです。<
に対して、
矛盾と思われそうな部分をトカゲ氏はメッセージNo.49974で次のように早速補足してくれた。
>後者の「例外はありますよ」、とは理論が最終局面に至らない場合は罵倒のやり取りになるとは限らない、という事です。いつもいつも罵倒の応酬では無いという意味での「例外はない」ということ。
とうぜん、前者の例外はないというのは罵倒無しに最終局面に至ることはないと言う意味です。<
早速補足してくれるだけに、実に素直な方だと猿がまたびっくりしてしまった。
「日本語に暗い」と自覚しながら、敢えてこのトリックに挑戦してみたいと思います。(本当は限界ですが)
まずは、補足文より
>とうぜん、前者の例外はないというのは罵倒無しに最終局面に至ることはないと言う意味です。
>後者の「例外はありますよ」、とは理論が最終局面に至らない場合は罵倒のやり取りになるとは限らない、という事です。
↑
前者の「例外はありません」を
“最終局面に至るまで必ず罵倒がある”に換言した方が分かりやすいだろう。
後者の「例外はありますよ」を
“理論が最終局面に至らない場合は罵倒しないこともある”に換言できるだろう。
(ここでいう「理論」は議論の言い間違いと思われるが)
両者を合わせて見ると、
“最終局面に至る議論では必ず罵倒があるが、最終局面に至らない議論では罵倒がないこともある”
↓
“最終局面に至る議論もあれば、至らない議論もある”
ということらしい。
要は「罵倒」のあるなしを「最終局面」のあるなしにすり替えたようだ。
こうすれば、喩え「例外ない」に不満を持った人がトカゲ氏に対して「あの議論に罵倒なかったじゃないか?」と質しても、
トカゲ氏は「あの議論は『最終局面に至ってない』から、『例外ない』ではなく、『例外ある』対象だ! 俺がそう補足したんだろう?」
しかし、どの状態が「最終局面に至」ったかどうかは本人以外誰も判断できない。
よって、本人以外、誰も質すことは出来ない仕組みを作り上げたのだ。
「俺の基準では中国は既に崩壊している、中国国民は消滅している」という彼の主張に誰も異議唱えられないようにした仕組みと「瓜二つ」だ。
同時に、トカゲ氏と中国側の議論は
罵倒がある場合は最終局面に至るケースもあれば、至らないケースもあるが、
罵倒がない場合は必ず最終局面に至らない。
中国側がトカゲ氏との議論に最終局面を望むのであれば、「罵倒」を入れるしかない
ということになります。
最後になるが、
トカゲ氏のこの高論はこれまでの経過を纏める過去形ではなく、中国側の本質を分析し、現在形で表現した。
「中国人はこういうもんだ」と言わんばかりのご主張だと中国人である私が感じたのあります。
PS:>いつもいつも罵倒の応酬では無いという意味での「例外はない」ということ。<
これを理解しようと猿は脳みそを出し切ったが、とうとう理解できなかったどころか、
「なんか頭がおかしいぞ」と周囲から言われ始めている。
“いつもいつも罵倒の応酬では無いという意味での「例外はある」ということ。”に訂正してみたが、
今度は「どのような真摯な批判でも最終的には中国側からの罵倒に推移しています」と矛盾してしまう。
おかげさまで、今日から入院だ。
Mochiさんにも日本人ファンがいるように、トカゲ氏にも日本人ファンがいることは何ら不思議ではないと思うようになった次第でございます。
Horseさんの包容力にまでは「至っていない」が。。。 感謝しています。
>彼等の反応を見ていると、いかなる相手であれ反中国的発言に対し最終的には理論をかなぐり捨て罵倒に切り替わっており、例外はありません。
むろん、日本側にも問題のある発言があるのは事実です。しかし、どのような真摯な批判でも最終的には中国側からの罵倒に推移しています。
例外はありますよ。だから、わたしも初期の頃は穏やかに話し合いをしていたこともありますが、そのような相手は途中で居なくなり、古くからのつきあいは結局話題がどうしても行き着くところまで行き着き、したがって今の様相を呈しているようです。<
に対して、
矛盾と思われそうな部分をトカゲ氏はメッセージNo.49974で次のように早速補足してくれた。
>後者の「例外はありますよ」、とは理論が最終局面に至らない場合は罵倒のやり取りになるとは限らない、という事です。いつもいつも罵倒の応酬では無いという意味での「例外はない」ということ。
とうぜん、前者の例外はないというのは罵倒無しに最終局面に至ることはないと言う意味です。<
早速補足してくれるだけに、実に素直な方だと猿がまたびっくりしてしまった。
「日本語に暗い」と自覚しながら、敢えてこのトリックに挑戦してみたいと思います。(本当は限界ですが)
まずは、補足文より
>とうぜん、前者の例外はないというのは罵倒無しに最終局面に至ることはないと言う意味です。
>後者の「例外はありますよ」、とは理論が最終局面に至らない場合は罵倒のやり取りになるとは限らない、という事です。
↑
前者の「例外はありません」を
“最終局面に至るまで必ず罵倒がある”に換言した方が分かりやすいだろう。
後者の「例外はありますよ」を
“理論が最終局面に至らない場合は罵倒しないこともある”に換言できるだろう。
(ここでいう「理論」は議論の言い間違いと思われるが)
両者を合わせて見ると、
“最終局面に至る議論では必ず罵倒があるが、最終局面に至らない議論では罵倒がないこともある”
↓
“最終局面に至る議論もあれば、至らない議論もある”
ということらしい。
要は「罵倒」のあるなしを「最終局面」のあるなしにすり替えたようだ。
こうすれば、喩え「例外ない」に不満を持った人がトカゲ氏に対して「あの議論に罵倒なかったじゃないか?」と質しても、
トカゲ氏は「あの議論は『最終局面に至ってない』から、『例外ない』ではなく、『例外ある』対象だ! 俺がそう補足したんだろう?」
しかし、どの状態が「最終局面に至」ったかどうかは本人以外誰も判断できない。
よって、本人以外、誰も質すことは出来ない仕組みを作り上げたのだ。
「俺の基準では中国は既に崩壊している、中国国民は消滅している」という彼の主張に誰も異議唱えられないようにした仕組みと「瓜二つ」だ。
同時に、トカゲ氏と中国側の議論は
罵倒がある場合は最終局面に至るケースもあれば、至らないケースもあるが、
罵倒がない場合は必ず最終局面に至らない。
中国側がトカゲ氏との議論に最終局面を望むのであれば、「罵倒」を入れるしかない
ということになります。
最後になるが、
トカゲ氏のこの高論はこれまでの経過を纏める過去形ではなく、中国側の本質を分析し、現在形で表現した。
「中国人はこういうもんだ」と言わんばかりのご主張だと中国人である私が感じたのあります。
PS:>いつもいつも罵倒の応酬では無いという意味での「例外はない」ということ。<
これを理解しようと猿は脳みそを出し切ったが、とうとう理解できなかったどころか、
「なんか頭がおかしいぞ」と周囲から言われ始めている。
“いつもいつも罵倒の応酬では無いという意味での「例外はある」ということ。”に訂正してみたが、
今度は「どのような真摯な批判でも最終的には中国側からの罵倒に推移しています」と矛盾してしまう。
おかげさまで、今日から入院だ。
Mochiさんにも日本人ファンがいるように、トカゲ氏にも日本人ファンがいることは何ら不思議ではないと思うようになった次第でございます。
Horseさんの包容力にまでは「至っていない」が。。。 感謝しています。
これは メッセージ 49978 (tokagenoheso さん)への返信です.
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