捏造では無い。 『ピカ』の後地獄絵図
投稿者: kizin_onino_hidetora 投稿日時: 2005/08/05 11:28 投稿番号: [40513 / 66577]
http://www.tokyo-np.co.jp/kioku05/index.html
<1>『ピカ』の後地獄絵図 (東京新聞より抜粋)
「バシッ」
衝撃とともに閃光(せんこう)が少年兵たちを包み込んだ。
マグネシウムのストロボのような青白い光。次の瞬間、爆風が人も校舎もなぎ倒した。
一九四五年八月六日午前八時十五分、広島。
陸軍特別幹部候補生に志願した十五歳の岩下康記さん(75)=福岡県飯塚市=はその時、
訓練所となった国民学校の校庭で、朝の点呼を受けていた。
爆心地から一・八キロ。たたきつけられた地面から顔を上げると、
ギラギラと輝いていた太陽はなく、地上は闇に覆われていた。
やがて、ポツポツと人の姿が見えてきた。皮膚も服も焼けてぶら下がり、
誰もが裸同然だった。顔の皮がはがれ、白い肉とほとばしる赤い血が見えた。
幽霊のように両手を前に上げて歩く姿は、地獄絵のようだった。
激しい痛みにわれに返ると、腕の皮がはがれているのに気づいた。胸に何かが当たった。
垂れ下がった顔の皮膚だった。足の皮が地面を引きずり、
痛くて歩けないので自分でちぎった。
音を立てて燃えさかる炎を避け、焼けたがれきをはだしで踏み越える。
家の下敷きになった五歳ぐらいの少女が、「兵隊さん、助けて!」と叫んだ。
火の海が迫っていたが、どうすることもできなかった。
郊外の山まで逃れて一夜を明かし、仮収容所に運ばれた。
兵士が「これ、もうだめだ。水飲ませ」と言うのが聞こえた。
やけどの患者に水を飲ませると死ぬと、聞いていた。
それでも岩下さんは生き続けた。傷口にハエがたかってウジがわき、
耳の中まで食い回った。「痛い、痛い」と叫んでも救護の手は回らない。
自分でつまみ出してはつぶしたが、眠ることもできなかった。
隣の兵士が顔一面をウジに覆われて死んだ。
周囲には何かを焼いたような異臭が漂っていた。
■ ■
「ピカドン」と呼ばれた新型爆弾が原子爆弾だったと知ったのは、
広島を離れて療養生活を送るようになってからだった。
寝たきりのまま、六つの病院を転々とした。ケロイドの整形手術などを繰り返して、
四七年暮れ、福岡に帰郷。日の丸と万歳に送られて出征した駅に、
つえを突いて一人で降り立った。悲しさを抑えきれず、隠れるように裏通りを歩いた。
顔の左半分を覆ったやけどのあとを見られるのが嫌で、座るときは壁際を選んだ。
「原爆ぶらぶら病」と呼ばれる特有の倦怠(けんたい)感にも苦しんだ。
あの時、「死んだつもりで頑張ってみないか」
と励ましてくれた伯父がいなかったら、立ち直れなかったかもしれない。
戦後は伯父の履物卸業を継いだ。結婚して、孫もできた今、
助かったのは「奇跡だった」と思う。医者から「すりこ木棒みたいにひっついてしまうぞ」
と言われた指は動くようになったが、寝たきりの後遺症で、今もひざが十分に伸びない。
耳の中を動き回るウジの感覚をまだ覚えている。
社会部 橋本誠
(2005年8月5日)
これは メッセージ 40503 (kitaguninosaru1 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552019566/cf9q_1/40513.html