南京条約と五四運動
投稿者: wmbyq010 投稿日時: 2005/05/08 14:17 投稿番号: [33521 / 66577]
阿片戦争
ついに開戦
こうしたなか、香港で一人の中国人がイギリス人水夫に殴られて死亡するという事件が発生した。林則徐は犯人の引き渡しを求めたが、 エリオットは犯人は不明だとしてこれを拒否。そこで林則徐は、報復措置としてマカオ在住のイギリス人に対する食糧の供給を禁じた。
両国間の緊張が高まるなか、ジャーディン、マセソンらの働きかけによって、イギリス本国でも「清国應懲論」を叫ぶものが増えてきた。 やがて應懲論に傾いたイギリス議会は一八四〇年二月、ついに清国に対する武力攻撃を決定した。「これほど恥さらしな戦争はない」 と議会内でも反対の論陣を張るものも少なくなかったが、結局、わずかの差で可決された。
同年六月、ジョージ・エリオットを総司令権全権使節とするイギリス艦隊が広東沖に到着するとただちに広州湾を封鎖、 ここに阿片戦争の火ぶたが切って落とされたのであった。
イギリス艦隊は、清国側の裏をかいて防備の固い広州を迂回し厦門を攻撃、さらに北上し、寧波沖の舟山列島を占領、そのまま大沽にいたり、 白河をさかのぼって北京をうかがう姿勢をみせた。のどもとにあいくちを突きつけられた清朝政府は大恐慌をきたし、事件の責任者である林則徐を罷免、 かわりに対外妥協派の筆頭、直隷総督奇善を欽差大臣に任命し、交渉にあたらせた。
奇善は、広州で起こったことは広州で処理するといってイギリス艦隊をいったん南下させたものの、結局イギリスの圧力に押されて、 香港島の割譲を含む川鼻仮条約に調印してしまう。一方、イギリス艦隊が北京を離れたことにホッとした清朝政内部には、再び強硬論が台頭。 香港島の割譲を約束したと知った皇帝は激怒し、奇善を解任した上犯罪人として新疆へ追放してしまった。
かわりに起用されたのが強硬派の奕山である。しかし、武力の裏付けのない奕山の強硬論もイギリスの強大な軍事力の 前にはなんら効を奏さず、逆に広州は攻撃してきたイギリス兵による暴行、略奪の対象となってしまった。たまりかねた付近の農民が立ち上がり、 英軍千名を包囲するという「三元里平英団事件」が起こったのはこのときである。
一方、川鼻仮条約に不満なのは清朝政府ばかりでなく、イギリスもまた同様だった。そこでイギリス政府はエリオットを罷免し、新たに ヘンリー・ポッティンジャーを全権使節として派遣、イギリス艦隊を再び北上させた。今度の戦いもイギリス軍にとっては、赤子の手を ひねるようなものだった。
厦門、舟山列島、乍浦をおとしたイギリス艦隊は上海を占領後、さらに長江をさかのぼり、南京城内へ向けて ズラリと砲列をしいた。中国の経済的動脈ともいうべき長江を扼されてはもはやどうしようもない。清朝政府は、南京陥落を目前にした 四二年八月、イギリスの要求を全面的に受け入れることに決定した。
調印式は、長江に浮かぶ旗艦コーンウォリス号の甲板上で行われ、 欽差大臣耆英とポッティンジャーとの間で南京条約が結ばれた。そこで取り決められたのは、一,アヘンの賠償を含む二一〇〇万ドルの 賠償金の支払い 二,香港の割譲、広州を含む厦門、福州、寧波、上海の五港の開港 三,広東の特権的中国行商(公行)の廃止 四,対等な 形式による交渉の規定などであった。
さらに翌年の虎門寨追加条約により、中国は関税自主権を喪失し、治外法権と片務的最恵国待遇の承認などを強制的に認めさせられた。 ここに中国をその後、約一世紀にもわたって縛りつけることになる不平等条約体制の基礎が確立されたのである。
ついに開戦
こうしたなか、香港で一人の中国人がイギリス人水夫に殴られて死亡するという事件が発生した。林則徐は犯人の引き渡しを求めたが、 エリオットは犯人は不明だとしてこれを拒否。そこで林則徐は、報復措置としてマカオ在住のイギリス人に対する食糧の供給を禁じた。
両国間の緊張が高まるなか、ジャーディン、マセソンらの働きかけによって、イギリス本国でも「清国應懲論」を叫ぶものが増えてきた。 やがて應懲論に傾いたイギリス議会は一八四〇年二月、ついに清国に対する武力攻撃を決定した。「これほど恥さらしな戦争はない」 と議会内でも反対の論陣を張るものも少なくなかったが、結局、わずかの差で可決された。
同年六月、ジョージ・エリオットを総司令権全権使節とするイギリス艦隊が広東沖に到着するとただちに広州湾を封鎖、 ここに阿片戦争の火ぶたが切って落とされたのであった。
イギリス艦隊は、清国側の裏をかいて防備の固い広州を迂回し厦門を攻撃、さらに北上し、寧波沖の舟山列島を占領、そのまま大沽にいたり、 白河をさかのぼって北京をうかがう姿勢をみせた。のどもとにあいくちを突きつけられた清朝政府は大恐慌をきたし、事件の責任者である林則徐を罷免、 かわりに対外妥協派の筆頭、直隷総督奇善を欽差大臣に任命し、交渉にあたらせた。
奇善は、広州で起こったことは広州で処理するといってイギリス艦隊をいったん南下させたものの、結局イギリスの圧力に押されて、 香港島の割譲を含む川鼻仮条約に調印してしまう。一方、イギリス艦隊が北京を離れたことにホッとした清朝政内部には、再び強硬論が台頭。 香港島の割譲を約束したと知った皇帝は激怒し、奇善を解任した上犯罪人として新疆へ追放してしまった。
かわりに起用されたのが強硬派の奕山である。しかし、武力の裏付けのない奕山の強硬論もイギリスの強大な軍事力の 前にはなんら効を奏さず、逆に広州は攻撃してきたイギリス兵による暴行、略奪の対象となってしまった。たまりかねた付近の農民が立ち上がり、 英軍千名を包囲するという「三元里平英団事件」が起こったのはこのときである。
一方、川鼻仮条約に不満なのは清朝政府ばかりでなく、イギリスもまた同様だった。そこでイギリス政府はエリオットを罷免し、新たに ヘンリー・ポッティンジャーを全権使節として派遣、イギリス艦隊を再び北上させた。今度の戦いもイギリス軍にとっては、赤子の手を ひねるようなものだった。
厦門、舟山列島、乍浦をおとしたイギリス艦隊は上海を占領後、さらに長江をさかのぼり、南京城内へ向けて ズラリと砲列をしいた。中国の経済的動脈ともいうべき長江を扼されてはもはやどうしようもない。清朝政府は、南京陥落を目前にした 四二年八月、イギリスの要求を全面的に受け入れることに決定した。
調印式は、長江に浮かぶ旗艦コーンウォリス号の甲板上で行われ、 欽差大臣耆英とポッティンジャーとの間で南京条約が結ばれた。そこで取り決められたのは、一,アヘンの賠償を含む二一〇〇万ドルの 賠償金の支払い 二,香港の割譲、広州を含む厦門、福州、寧波、上海の五港の開港 三,広東の特権的中国行商(公行)の廃止 四,対等な 形式による交渉の規定などであった。
さらに翌年の虎門寨追加条約により、中国は関税自主権を喪失し、治外法権と片務的最恵国待遇の承認などを強制的に認めさせられた。 ここに中国をその後、約一世紀にもわたって縛りつけることになる不平等条約体制の基礎が確立されたのである。
これは メッセージ 33510 (rtsdfgzxcv さん)への返信です.
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