ダライ・ラマついでに中共のアキレス腱
投稿者: ni04jp 投稿日時: 2005/04/11 23:57 投稿番号: [28244 / 66577]
胡○濤は、チベット弾圧に手を染め、その”弾圧の成果”で大出世した。
しかし、これはアキレス腱にもなりうる。
以下抜粋
彼が就任して間もなく、チベット歴の新年に開催される『大祈願祭(モンラム・チェンモ)』への参加を、僧侶たちが拒否する姿勢を見せた。胡錦濤がチベットに到着した直後の、1月28日(太陽暦)にパンチェン・ラマ10世は亡くなった。それがデモや独立要求運動に拍車を掛けることとなった。胡錦濤は、『民族独立運動を厳しく弾圧する』との共産党中央の基本政策、および中央の個々の指令を適切にまた決然と実行している、との姿勢を見せた。報道管制が敷かれた。3月5日および6日には、武装警察はデモの参加者に向けて催涙ガスと銃を発射した。そして翌日の1989年3月7日には、戒厳令が布告された。
これらの対応によって次第に、胡錦濤は陳雲やトウ小平に好印象を与えるように
なっていた。1989年5月と6月に、天安門広場で学生達がデモを展開した際にも、ラサは厳しい戒厳令下に置かれていた。そして6月4日に天安門広場に戦車が導入されるや、胡錦濤は共産党中央委員会に電報を打って、『戒厳政策』への強い支持を表明したと伝えられている。
チベットにいる間に胡錦濤は、「一方で分離主義を抑圧し、他方で経済建設を実行する」政策を定着させた。1989年12月、チベット自治区共産党委員会の準備会議の席で彼は演説し、1987年以来ラサで続発しているデモは、「祖国を分裂させ、共産党に敵対し、社会制度を転覆すること狙った激しい戦闘」であると述べている。彼は続けてさらに、「チベットは、現在2つの大きな問題に直面している。1つは、分離主義を抑え込むことが、厳しい状況であること。国際的反動勢力に支援されたダライ一派
は、『チベット独立』に関する大勢の意見を作り上げ、あらゆるルートを利用して自治区に忍び込み、新たな暴動を画策している。もう一つの問題は、チベットの経済的な基盤が脆弱であることだ。経済発展に大きく遅れを取ってしまっている。だからチベットの状況を安定させることが、チベットにおける政治の第1の仕事である」と語っている。
天安門事件の数カ月後、胡耀邦と趙紫陽の政策は共産党内部で厳しい批判に曝された。『ブルジョア自由主義』の脅威に対して、姿勢が弱過ぎたというのである。共産党は現在も、経済再建を最優先させている。しかしチベット自治区では、胡錦濤は分離主義との対決を最重点課題に据えて、北京の強硬路線派の間では得点を稼いだ。1990年10月、彼はチベット軍区中国共産党委員会の第一書記を兼任することになった。
http://www.tibet.to/tnd/tnd26.html#tnd26-5
しかし、これはアキレス腱にもなりうる。
以下抜粋
彼が就任して間もなく、チベット歴の新年に開催される『大祈願祭(モンラム・チェンモ)』への参加を、僧侶たちが拒否する姿勢を見せた。胡錦濤がチベットに到着した直後の、1月28日(太陽暦)にパンチェン・ラマ10世は亡くなった。それがデモや独立要求運動に拍車を掛けることとなった。胡錦濤は、『民族独立運動を厳しく弾圧する』との共産党中央の基本政策、および中央の個々の指令を適切にまた決然と実行している、との姿勢を見せた。報道管制が敷かれた。3月5日および6日には、武装警察はデモの参加者に向けて催涙ガスと銃を発射した。そして翌日の1989年3月7日には、戒厳令が布告された。
これらの対応によって次第に、胡錦濤は陳雲やトウ小平に好印象を与えるように
なっていた。1989年5月と6月に、天安門広場で学生達がデモを展開した際にも、ラサは厳しい戒厳令下に置かれていた。そして6月4日に天安門広場に戦車が導入されるや、胡錦濤は共産党中央委員会に電報を打って、『戒厳政策』への強い支持を表明したと伝えられている。
チベットにいる間に胡錦濤は、「一方で分離主義を抑圧し、他方で経済建設を実行する」政策を定着させた。1989年12月、チベット自治区共産党委員会の準備会議の席で彼は演説し、1987年以来ラサで続発しているデモは、「祖国を分裂させ、共産党に敵対し、社会制度を転覆すること狙った激しい戦闘」であると述べている。彼は続けてさらに、「チベットは、現在2つの大きな問題に直面している。1つは、分離主義を抑え込むことが、厳しい状況であること。国際的反動勢力に支援されたダライ一派
は、『チベット独立』に関する大勢の意見を作り上げ、あらゆるルートを利用して自治区に忍び込み、新たな暴動を画策している。もう一つの問題は、チベットの経済的な基盤が脆弱であることだ。経済発展に大きく遅れを取ってしまっている。だからチベットの状況を安定させることが、チベットにおける政治の第1の仕事である」と語っている。
天安門事件の数カ月後、胡耀邦と趙紫陽の政策は共産党内部で厳しい批判に曝された。『ブルジョア自由主義』の脅威に対して、姿勢が弱過ぎたというのである。共産党は現在も、経済再建を最優先させている。しかしチベット自治区では、胡錦濤は分離主義との対決を最重点課題に据えて、北京の強硬路線派の間では得点を稼いだ。1990年10月、彼はチベット軍区中国共産党委員会の第一書記を兼任することになった。
http://www.tibet.to/tnd/tnd26.html#tnd26-5
これは メッセージ 28236 (youjiarisa さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552019566/cf9q_1/28244.html