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>>>胡○濤はチベット弾圧で大出世

投稿者: ni04jp 投稿日時: 2005/04/10 12:54 投稿番号: [27623 / 66577]
ついでに本文から抜粋

胡錦濤は1989年1月、チベット自治区の共産党書記に就任した。彼が指名された経
緯については、幾つかの異なった話が伝えられており、彼だけが応募するように促され
たものなのか、あるいは彼を含めて複数の候補者を共産党が立てたのかははっきりしな
い。しかし彼に好意的な解説によれば、この役職に就く意志を『恐れることなく』表明
したのは彼だけであったという。1992年12月に、香港のジャーナリストのタンタ
イが彼を、「戦闘任務を求める兵士のようだ」と評している。この任命が左遷人事だと
見る人達もいたが、勇気を持ってこの任務を引き受けたことが、その後の彼の昇進の基
盤を作ったことは間違いない。

チベット自治区の指導者になった者の中で、民間人出身の政治家は胡錦濤が最初であっ
た。彼は元々、水力発電所の技師であった。中国政府が、仏教僧侶や尼僧を取り締まる
のに、厳格な軍人の指導者を送らなかったことに、驚きを示す解説者たちもいた。当時
のロイター電は、彼を『若き改革者』と評していた。また外交官の中にも、彼が「善良
で人間味豊かな人間であり、とても良い選抜だ」と評している人達もいた。

彼が就任して間もなく、チベット歴の新年に開催される『大祈願祭(モンラム・チェン
モ)』への参加を、僧侶たちが拒否する姿勢を見せた。胡錦濤がチベットに到着した直
後の、1月28日(太陽暦)にパンチェン・ラマ10世は亡くなった。それがデモや独
立要求運動に拍車を掛けることとなった。胡錦濤は、『民族独立運動を厳しく弾圧す
る』との共産党中央の基本政策、および中央の個々の指令を適切にまた決然と実行して
いる、との姿勢を見せた。報道管制が敷かれた。3月5日および6日には、武装警察は
デモの参加者に向けて催涙ガスと銃を発射した。そして翌日の1989年3月7日に
は、戒厳令が布告された。

これらの対応によって次第に、胡錦濤は陳雲やトウ小平に好印象を与えるように
なっ
ていた。1989年5月と6月に、天安門広場で学生達がデモを展開した際にも、ラサ
は厳しい戒厳令下に置かれていた。そして6月4日に天安門広場に戦車が導入される
や、胡錦濤は共産党中央委員会に電報を打って、『戒厳政策』への強い支持を表明した
と伝えられている。

チベットにいる間に胡錦濤は、「一方で分離主義を抑圧し、他方で経済建設を実行す
る」政策を定着させた。1989年12月、チベット自治区共産党委員会の準備会議の
席で彼は演説し、1987年以来ラサで続発しているデモは、「祖国を分裂させ、共産
党に敵対し、社会制度を転覆すること狙った激しい戦闘」であると述べている。彼は続
けてさらに、「チベットは、現在2つの大きな問題に直面している。1つは、分離主義
を抑え込むことが、厳しい状況であること。国際的反動勢力に支援されたダライ一派
は、『チベット独立』に関する大勢の意見を作り上げ、あらゆるルートを利用して自治
区に忍び込み、新たな暴動を画策している。もう一つの問題は、チベットの経済的な基
盤が脆弱であることだ。経済発展に大きく遅れを取ってしまっている。だからチベット
の状況を安定させることが、チベットにおける政治の第1の仕事である」と語ってい
る。

http://www.tibet.to/tnd/tnd26.html#tnd26-5

胡は、出世のために敢えてチベット書記を引き受けたとも読める。
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