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毛沢東ってのは中国人の原点なのか?

投稿者: ty470620 投稿日時: 2004/12/03 16:55 投稿番号: [17032 / 66577]
この板で吼えている中国人は、毛沢東と同じなのか?

毛沢東が笑顔の蔭で狙っていたのは、劉少奇を打倒目標に掲げつづけることで、大衆の憎悪を煽ることだった。67年7月には
数十万人の紅衛兵に取り囲まれ、「批判台」に立たされて、2時間にわたって両手をまっすぐ後ろに伸ばして、腰をかがめ、頭を下げる「ジェット式縛り上げ」をさせられた。その姿は劉少奇の幼い子供たちにも見せつけられた。9月には自宅で監禁状態となった。痛めつけられた手で服を着
るには30分もかかり、足の古傷が悪化して、30メートル離れた食堂に行くのに、50分もかかった。そこでは作りおきされ、古くなった食事を食べさせられた。
68年10月には、「スパイ」「反党分子」の容疑で、党からの永久除名が宣言され、69年10月、裸のまま軍用毛布に包まれ、コンクリートむき出しの倉庫部屋に移された。肺炎のために高熱と嘔吐がとまらず、1ヶ月たたないうちに死亡した。毛沢東の「打倒劉少奇」は、文化大革命を企んでから4年をかけて、ついに完了した。

67年の夏には、中国全土が内戦に近い状態となっていった。初期の紅衛兵たちは、共産党幹部の子弟が多かったのだが、その
親たちが糾弾され始めると、派閥に分かれて、内部抗争を始めたのである。なかでも四川省は武器弾薬製造の中心地だったため、各派が軍需工場や武器庫から、戦車、装甲車、大砲までも奪って武装した。宣賓(イーピン)という町では、大砲や手榴弾、迫撃砲、機関銃を使った内戦が起こり、百人を越す死者が出た。敗走した一派
が、となりの濾州(リュイチョウ)市に流れると、5千人の勢力が追撃をしかけて、300人近くの死者を出した。毛は「若い者たちに武器のあつかいを経験させるのも悪くない。もうすいぶん長いこと戦争をやっていないのだから」と言った。

69年1月、手に負えなくなった全国の紅衛兵1500万人は、一斉に農村に「下放」されることになった。ユンは兄弟と共に四川
省の奥地に流されるが、そこから苦労して、交替で父と母の労働キャンプを訪ねる。弟の京明(チンミン)が71年末に訪ねた時、父の精神異常は治っていたが、からだはぼろぼろだった。二人で歩いている時、呼吸困難の発作に襲われ、あえぎながら京明に言った。父さんは、ひどい子供時代を送った。世の中は不正にまみれていた。共産党に入ったのは、公正な世を作りたかったからだ。それ以来ずっと全力をつくしてやってきた。だが、それが人民の役にたったか?   自分のためになったか?   家族のみんなを破滅の淵にひきずりこんで、何のための苦労だったのか。・・・もし、父さんがこんなふうにして死んだら、 もう共産党を信ずることはないぞ。

76年9月、ユンは毛沢東の死を知った。「とほうもない幸福感に、私は一瞬ぼうっとなった。」   1957年の「大躍進」から始
まった「空白の20年」がようやく終わりを告げたのだ。ユンはふりかえる。
毛沢東は・・・嫉妬や怨恨といった人間の醜悪な本性をじつにたくみに把握し、自分の目的に合わせて利用する術を心得ていた。毛沢東は、人民がたがいに憎しみあうようしむけることによって国を統治した。さらに建築、美術、音楽など自分に理解できない分野には、まるっきり価値を認めなかった。そして、結局中国の文化遺産をほとんど破壊してしまった。毛沢東は残忍な社会を作り上げるだけでなく、輝かしい過去の文化遺産まで否定し、破壊して、醜いだけの中国を残していったのである。
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