やはり歴史は発展なく繰り返しか?
投稿者: patoriot_kura 投稿日時: 2004/10/28 15:48 投稿番号: [14578 / 66577]
対華借款
アジア 中華人民共和国 AD
中国政府(地方政府の場合も含めて)が外国政府や企業から受けた借款(ローンやクレジット供与)のこと。100年近い歴史があるが,中華人民共和国成立までの借款は列強が国際政治上の権力拡張の手段として,資本輸出の形をとったことが多く,その後の借款は社会主義諸国間の経済協力の一環という性質が強いという特徴がある。したがって,旧中国(清朝,国民党政府など)の借款契約は政府収入の基本である関税や塩税を担保として設定されることが多かったり,鉄道や鉱山の場合は管理権や運営権を保有することが多かった。新中国では平等・互恵・主権・領土の不可侵を原則にしているため,外国からの借款は純粋な経済協力とみなすことができる。対華借款の長い歴史は四つに区分して考えることができる。
【第1期(清朝時代借款)】対華借款の始まりは,伊犁(イリ)善後借款や台湾事件借款であるといわれている。前者はロシアヘの賠償金調達,後者は日本への賠償金である。供与額は各々500万両(リアン,清末の貨幣単位,対外的にはテールと呼ばれた),20万両で,1877年,1876年に供与された。日清戦争ごろまでは,10余回に及ぶ借款のいずれも,香港上海銀行やジャーディン=マジソン商会などの私企業がその債権者で,償還は利率の高さにもかかわらず円滑に行われた。しかし,日清戦争ごろから対華借款の性質は一変する。列強が競って中国市場への利権を求めて殺到し,一方,中国は軍事費調達や莫大な賠償金の支払いのため急速に財政は逼迫,さまざまな制限のある不利な条件で列強からの巨額の借款を受け入れた。また,借款の債権者は1国だけでなく,日清戦争後は数カ国に及ぶシンジケート団も結成され,主に鉄道の利権に集中的な借款供与がなされた。その代表例は1910年の英米独仏の湖広鉄道借款で,このほかに弊制改革も結ばれたが,辛亥革命によって清が滅びたため一時中断した。
【第2期(北京政府借款)】袁世凱政府が4カ国(英・米・仏・独)に6,000万ポンドの善後借款を行おうとしたが,借款団内部の対立もあって日本・ロシアが加わり,後にアメリカが抜けたため,5カ国による2,500万ポンドの供与がなされた(1913,善後借款)。これは袁政府が財政逼迫を乗り切るためで,この後の借款については列強諸国の独占権が確立されることになる。また,軍閥による中国内部抗争の激化が列強各国の利害の違いに拍車をかけ,競って無担保供与や不確実な供与を促進させた。日本の段祺瑞政府への西原借款はその代表例であった。鉄道借款は借款項目の過半に及び,1984年当時200マイルに過ぎなかった鉄道の総延長距離は1913年には6,000マイルにも及んだ。
【第3期(国民党政府借款)】国民党政府は借款を避けて清朝以来の旧債整理に当たる方策をとろうとしたが,累積した償還未了借款が1936年には,9,354万ポンドにものぼり,借款を再開せざるをえなくなった。日中戦争が1937年開始されると,日本の急激な中国進出に対抗するため旧権益をもっているイギリスを中心に国民党政府への借款が増大した。しかしヨーロッパで戦火がおこったためイギリスは後退し,かわってアメリカが中国最大の債権者になった。太平洋戦争が始まると軍事援助の側面を強くし,約1億4,000万ドルもの巨額の借款額となった。第二次世界大戦後も1946年まで,経済復興のためにカナダなどとともに借款をつづけ,その援助・借款額は22億5,350万ドルにのぼったが,国民党と共産党の対立が激しくなり,借款の使途不明の部分が多くその実効は上がらなかった。
【第4期(中華人民共和国借款)】新中国の借款はソ連がその中心であった。しかも借款の実態は経済協力が主で,その額は公表されていないが,1964年の全国人民代表会議の報告では,借款合計は14億600万新ルーブル,返済合計は13億8,900万新ルーブルであった。自力更生のスローガン,中−ソの亀裂などで,一連の借款は終わったと考えられるが,現在の中国は,開放経済体制を標榜してきており,今後の借款方針が注目される。
アジア 中華人民共和国 AD
中国政府(地方政府の場合も含めて)が外国政府や企業から受けた借款(ローンやクレジット供与)のこと。100年近い歴史があるが,中華人民共和国成立までの借款は列強が国際政治上の権力拡張の手段として,資本輸出の形をとったことが多く,その後の借款は社会主義諸国間の経済協力の一環という性質が強いという特徴がある。したがって,旧中国(清朝,国民党政府など)の借款契約は政府収入の基本である関税や塩税を担保として設定されることが多かったり,鉄道や鉱山の場合は管理権や運営権を保有することが多かった。新中国では平等・互恵・主権・領土の不可侵を原則にしているため,外国からの借款は純粋な経済協力とみなすことができる。対華借款の長い歴史は四つに区分して考えることができる。
【第1期(清朝時代借款)】対華借款の始まりは,伊犁(イリ)善後借款や台湾事件借款であるといわれている。前者はロシアヘの賠償金調達,後者は日本への賠償金である。供与額は各々500万両(リアン,清末の貨幣単位,対外的にはテールと呼ばれた),20万両で,1877年,1876年に供与された。日清戦争ごろまでは,10余回に及ぶ借款のいずれも,香港上海銀行やジャーディン=マジソン商会などの私企業がその債権者で,償還は利率の高さにもかかわらず円滑に行われた。しかし,日清戦争ごろから対華借款の性質は一変する。列強が競って中国市場への利権を求めて殺到し,一方,中国は軍事費調達や莫大な賠償金の支払いのため急速に財政は逼迫,さまざまな制限のある不利な条件で列強からの巨額の借款を受け入れた。また,借款の債権者は1国だけでなく,日清戦争後は数カ国に及ぶシンジケート団も結成され,主に鉄道の利権に集中的な借款供与がなされた。その代表例は1910年の英米独仏の湖広鉄道借款で,このほかに弊制改革も結ばれたが,辛亥革命によって清が滅びたため一時中断した。
【第2期(北京政府借款)】袁世凱政府が4カ国(英・米・仏・独)に6,000万ポンドの善後借款を行おうとしたが,借款団内部の対立もあって日本・ロシアが加わり,後にアメリカが抜けたため,5カ国による2,500万ポンドの供与がなされた(1913,善後借款)。これは袁政府が財政逼迫を乗り切るためで,この後の借款については列強諸国の独占権が確立されることになる。また,軍閥による中国内部抗争の激化が列強各国の利害の違いに拍車をかけ,競って無担保供与や不確実な供与を促進させた。日本の段祺瑞政府への西原借款はその代表例であった。鉄道借款は借款項目の過半に及び,1984年当時200マイルに過ぎなかった鉄道の総延長距離は1913年には6,000マイルにも及んだ。
【第3期(国民党政府借款)】国民党政府は借款を避けて清朝以来の旧債整理に当たる方策をとろうとしたが,累積した償還未了借款が1936年には,9,354万ポンドにものぼり,借款を再開せざるをえなくなった。日中戦争が1937年開始されると,日本の急激な中国進出に対抗するため旧権益をもっているイギリスを中心に国民党政府への借款が増大した。しかしヨーロッパで戦火がおこったためイギリスは後退し,かわってアメリカが中国最大の債権者になった。太平洋戦争が始まると軍事援助の側面を強くし,約1億4,000万ドルもの巨額の借款額となった。第二次世界大戦後も1946年まで,経済復興のためにカナダなどとともに借款をつづけ,その援助・借款額は22億5,350万ドルにのぼったが,国民党と共産党の対立が激しくなり,借款の使途不明の部分が多くその実効は上がらなかった。
【第4期(中華人民共和国借款)】新中国の借款はソ連がその中心であった。しかも借款の実態は経済協力が主で,その額は公表されていないが,1964年の全国人民代表会議の報告では,借款合計は14億600万新ルーブル,返済合計は13億8,900万新ルーブルであった。自力更生のスローガン,中−ソの亀裂などで,一連の借款は終わったと考えられるが,現在の中国は,開放経済体制を標榜してきており,今後の借款方針が注目される。
これは メッセージ 1 (topics_editor さん)への返信です.
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