論というは
投稿者: aki_fumika 投稿日時: 2003/10/18 10:45 投稿番号: [1392 / 66577]
テーマを出すのは自由。それに乗るのも乗らないのも自由。ただ、どこかの阿呆が出した数件のテーマの選択にはかなり「意図的」なものが看破される。
どこかの阿呆が「論拠」として提示しているものは、そもそも、それが「妥当性」を有するものなのか否かの「精査」が必要。一方的に「論拠」のレッテルを貼るあたり、なかなか、強引。
論というは、これは「論拠として妥当な」ものとなり得るか否かを、まず、考察することから始まる。
そこあたりの、議論の、手続きを、「故意」に等閑視するあたりは、低脳、破廉恥漢などと呼ばれても致し方なし。なにせ、自ら、論議の講釈をのたもう御仁。こうした基本を知らぬはずはなく、ただ、故意にはずしているという、「意図」のみが浮いて出ている、というお粗末。それを本人が分からない?というのは、これまた、不可思議千万。
ご同胞を哀れんで、かばおうとする御仁もいらっしゃるようではあるが、それこそ、獅子身中の虫、の喩え。
或いは、一般人民にまで、かようなる詭弁を浸透させている、かの国の教育の恐ろしさを、わが国に知らしめるため、か?或いはまた、真に、ご同朋なりしか?細胞となるは簡単、しかし、その報いは、後年になり、社会の高き場所に就かれた頃に、そっと、某筋から要求されるのが通例。ゆめゆめ、侠気から、人生を誤りませぬよう。
一言。
うーむ、文革時代のアジ看(立て看)の文句を真似たのですが、うまく書けませんでしたねえ。私の友人で文革当時のアジ看の写真を沢山もっている人がいるのですが、なかなか、すごい中国語です。やはり真似はできませんでした。
これは メッセージ 1 (topics_editor さん)への返信です.
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