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Re: 蕃薯的地圖⇔黄河決壊事件

投稿者: puorgnoitca 投稿日時: 2008/11/27 22:40 投稿番号: [15229 / 16409]
国民党は、日本軍と戦うことも無く、自国民の水死者100万人を出した。

昔から、役立たずの人殺しの暴力団だった国民党!!




黄河決壊事件(こうがけっかいじけん)は、日中戦争初期の1938年に起きた事件。日本軍の急進撃を止める目的で中国国民党によって起こされた。事件当時は黄河決潰事件と表記された。中国では花園口决堤事件と呼ばれる。事件は洪水による多大な犠牲者を生んだのみならず、農作物の被害も甚大となり住民を苦しめる焦土作戦という面があった。この後、国民党の食料調達の際は農民からの搾取が厳しいものとなる。


背景

1937年の日中戦争開始より日本帝国陸軍は中国中心部への進軍を急速にすすめた為、1938年6月までに日本は中国北部の全てを支配するに至った。6月6日に、日本は河南(Henan)の中心地である開封(Kaifeng)を占領、鄭州(Zhengzhou)が攻略される様相となった。鄭州は交通の動脈である平漢(Pinghan)と隴海(Longhai)の両鉄道路線の合流点であり、日本の攻略が成功することは、国民党政府にとって武漢(Wuhan)と西安(Xi'an)の主要都市の危機に直結することだった。[1]

早急な対策が求められた国民党軍側では劉峠第一戦区副司令官の「黄河の堤防破壊により洪水を起すことによって日本軍の進撃を阻止」する案が程潜司令官に示され、蒋介石の承認を得た[2]。


洪水

商震将軍は蒋介石から日本軍前衛部隊の背後を突くように堤防爆破を命じられたが、国民党軍の撤退が終わるまで爆破を延ばしていた。この間、蒋介石は何度もその爆破が行われたかの問い合わせを行っている[3]。

6月7日には中牟近くで爆破が行われたが、この作業は結果として失敗し[2]、場所を花園口(Huayuankou)に変更して作業が進められ、6月9日午前9時に作業が終了し黄河の水は堤防の外に流れ出した[4]。そして、河南、安徽(Anhui)と江蘇(Jiangsu)の3省の土地54,000平方kmを水浸しにした。この結果として黄河の流れはその後9年間は南側へ変わった。水没した範囲は11都市と4,000の村におよび、3省の農地は農作物ごと破壊され、水死者100万人、被害者600万人と言われる[5][6]が被害の程度については諸説ある[7][8][9]。
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