■弱者を装い反撃に出る、狡猾な中国の手口
投稿者: retuationew 投稿日時: 2008/04/12 14:55 投稿番号: [8211 / 30899]
中国は1950〜51年「チベット解放」という名の侵攻・占領をしました。チベットに侵攻してそのまま占領。つまり侵略です。
チベット人120万人を死に追いやったことは覆い隠し、「障害者が巻き込まれた」などと弱者のふりをするのが、狡猾な中国のやり方。
今回、読売新聞が「情報筋」の話として、「中国は『被害者』の立場を強調して、その上で攻勢に出る、これが中国のいつものやり方だ」と解説していました。そのとおりですね。
これを中国語で
『移花接木』(議論のすり替え・詭弁)と言います。
『死不認錯』(死んでも非を認めない)と並んで、中国の伝統的な手法です。
彼らは「馬鹿」でも「洗脳」されている訳でもなく、「冷徹」であり「狡猾」なのです。
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■『中国はいかにチベットを侵略したか』
妻、娘、尼僧たちは中国人に繰り返し強姦された。特に尊敬されている僧たちは狙いうちにされ、尼僧と性交を強いられたりもした。
ある僧院は馬小屋にされ、僧たちはそこに連行されてきた売春婦との性交を強いられた。
拒否した僧のあるものは腕を叩き切られ、 「仏陀に腕を返してもらえ」 と嘲笑された。
大勢のチベット人は、手足を切断され、首を切り落とされ、焼かれ、熱湯を浴びせられ、馬や車で引きずり殺されていった。
アムドでは高僧たちが散々殴打されて穴に放り込まれ、村人はそのうえに小便をかけるように命じられた。
さらに高僧たちは「霊力で穴から飛び上がって見せろ」 と中共兵に嘲られ、挙句に全員射殺された。おびえる子供たちの目の前で両親は頭をぶち抜かれ、大勢の少年少女が家から追われて中共の学校や孤児院に強制収容されていった。
貴重な仏像は冒涜され、その場で叩き壊されたり、中国本土へ持ち去られていったりした。経典類はトイレットペーパーにされた。
僧院は馬や豚小屋にされるか、リタン僧院のように跡形もなく破壊されてしまった。
リタン省長は村人の見守る中で拷問され、射殺された。
何千人もの村民は強制労働に駆り出されそのまま行方不明になっていった。
僧院長たちは自分の糞便をむりやり食わされ、 「仏陀はどうしたんだ?」 と中共兵に嘲られた。
出典:『中国はいかにチベットを侵略したか』 講談社 マイケル・ダナム
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■『マオ 誰も知らなかった毛沢東』 ユン・チアン 講談社
下巻 第24章 チベット動乱 1959年
・・・武力鎮圧と平行して、宣伝戦も行われた。4月29日、毛沢東の命令によって、チベットは恐ろしい土地であるというイメージを植え付けるための大々的なメディア・キャンペーンが始まった。チベットでは、活きたまま皮を剥がれ腱を切断されるような身の毛もよだつ拷問に加えて、目をくりぬくような刑罰も日常茶飯事である、といった宣伝が行われた。昔からの偏見も手伝って、この宣伝作戦は効果をあげ、チベットは野蛮な国だというイメージが中国人たちの頭に焼きついた。
「人々は目、耳、口,鼻から血を流すまで殴られ、手足の骨を折られて気を失った。あるいはその場で死亡した」と、パンチェン・ラマが書いている。
圧倒的多数のチベット人が毛沢東政権に抵抗する暴動に加わったため、中国軍はチベット人をすべて敵として扱った。成人男性の大多数がまとめて検挙された。チベット族全体の15〜20%、おそらく成人男性の半数が投獄され、人間以下の扱いを受けて、死ぬまで重労働させられたという。重い犂を引く囚人たちに針金の鞭が打ち下ろされたという。
反乱の平定を行った中国軍は、残虐極まりない行為を行った。ある場所では、死体が山からひきずりおろされて大きな穴に埋められた後、遺族が呼び集められ、中国兵から「我々は匪賊を殲滅した。今日はめでたい日だ。おまえたちみんな、穴の上で踊れ」と言われたという。
パンチェン・ラマによれば、1959年以前にはチベットに2500以上あった僧院・尼僧院が1961年にはわずか70余りに減ってしまった。11万人以上いた僧・尼僧は7000人に減ってしまった。約1万人は国外へ逃亡した。毛沢東はパンチェン・ラマに対して10年間にわたる投獄を含め、さまざまな迫害を行った。
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今回のチベット問題を通じて、中国共産党が長年のあいだ重ねてきたウソが、一般日本人にも広く知られるようになりました。中共は早く崩壊すればいいと思います。
チベット人120万人を死に追いやったことは覆い隠し、「障害者が巻き込まれた」などと弱者のふりをするのが、狡猾な中国のやり方。
今回、読売新聞が「情報筋」の話として、「中国は『被害者』の立場を強調して、その上で攻勢に出る、これが中国のいつものやり方だ」と解説していました。そのとおりですね。
これを中国語で
『移花接木』(議論のすり替え・詭弁)と言います。
『死不認錯』(死んでも非を認めない)と並んで、中国の伝統的な手法です。
彼らは「馬鹿」でも「洗脳」されている訳でもなく、「冷徹」であり「狡猾」なのです。
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■『中国はいかにチベットを侵略したか』
妻、娘、尼僧たちは中国人に繰り返し強姦された。特に尊敬されている僧たちは狙いうちにされ、尼僧と性交を強いられたりもした。
ある僧院は馬小屋にされ、僧たちはそこに連行されてきた売春婦との性交を強いられた。
拒否した僧のあるものは腕を叩き切られ、 「仏陀に腕を返してもらえ」 と嘲笑された。
大勢のチベット人は、手足を切断され、首を切り落とされ、焼かれ、熱湯を浴びせられ、馬や車で引きずり殺されていった。
アムドでは高僧たちが散々殴打されて穴に放り込まれ、村人はそのうえに小便をかけるように命じられた。
さらに高僧たちは「霊力で穴から飛び上がって見せろ」 と中共兵に嘲られ、挙句に全員射殺された。おびえる子供たちの目の前で両親は頭をぶち抜かれ、大勢の少年少女が家から追われて中共の学校や孤児院に強制収容されていった。
貴重な仏像は冒涜され、その場で叩き壊されたり、中国本土へ持ち去られていったりした。経典類はトイレットペーパーにされた。
僧院は馬や豚小屋にされるか、リタン僧院のように跡形もなく破壊されてしまった。
リタン省長は村人の見守る中で拷問され、射殺された。
何千人もの村民は強制労働に駆り出されそのまま行方不明になっていった。
僧院長たちは自分の糞便をむりやり食わされ、 「仏陀はどうしたんだ?」 と中共兵に嘲られた。
出典:『中国はいかにチベットを侵略したか』 講談社 マイケル・ダナム
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■『マオ 誰も知らなかった毛沢東』 ユン・チアン 講談社
下巻 第24章 チベット動乱 1959年
・・・武力鎮圧と平行して、宣伝戦も行われた。4月29日、毛沢東の命令によって、チベットは恐ろしい土地であるというイメージを植え付けるための大々的なメディア・キャンペーンが始まった。チベットでは、活きたまま皮を剥がれ腱を切断されるような身の毛もよだつ拷問に加えて、目をくりぬくような刑罰も日常茶飯事である、といった宣伝が行われた。昔からの偏見も手伝って、この宣伝作戦は効果をあげ、チベットは野蛮な国だというイメージが中国人たちの頭に焼きついた。
「人々は目、耳、口,鼻から血を流すまで殴られ、手足の骨を折られて気を失った。あるいはその場で死亡した」と、パンチェン・ラマが書いている。
圧倒的多数のチベット人が毛沢東政権に抵抗する暴動に加わったため、中国軍はチベット人をすべて敵として扱った。成人男性の大多数がまとめて検挙された。チベット族全体の15〜20%、おそらく成人男性の半数が投獄され、人間以下の扱いを受けて、死ぬまで重労働させられたという。重い犂を引く囚人たちに針金の鞭が打ち下ろされたという。
反乱の平定を行った中国軍は、残虐極まりない行為を行った。ある場所では、死体が山からひきずりおろされて大きな穴に埋められた後、遺族が呼び集められ、中国兵から「我々は匪賊を殲滅した。今日はめでたい日だ。おまえたちみんな、穴の上で踊れ」と言われたという。
パンチェン・ラマによれば、1959年以前にはチベットに2500以上あった僧院・尼僧院が1961年にはわずか70余りに減ってしまった。11万人以上いた僧・尼僧は7000人に減ってしまった。約1万人は国外へ逃亡した。毛沢東はパンチェン・ラマに対して10年間にわたる投獄を含め、さまざまな迫害を行った。
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今回のチベット問題を通じて、中国共産党が長年のあいだ重ねてきたウソが、一般日本人にも広く知られるようになりました。中共は早く崩壊すればいいと思います。
これは メッセージ 8201 (dodandan7 さん)への返信です.
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