Re: 忘却の彼方 3
投稿者: tabidatinoutamaro 投稿日時: 2008/04/27 20:15 投稿番号: [18350 / 30899]
今年(1998年)6月27日、クリントン大統領は北京で江沢民主席との共同記者会見の席上、中国政府にダライ・ラマと話し合いをするよう要求し、中共とダライの双方に圧力を加えた。最近では中共はダライとの接触を試みているようであるが、いまだに正式な対話の兆しはないようである。
中共は、1979年3月、自ら提案してダライの兄ギャロ・トゥンドゥプを北京に招き訒小平に引き合わせて以来、ダライ側との折衝を十四年間続けてきたが、1993年8月、“チベット亡命政府”によって中断された。話し合いが実を結ばなかった根本原因は、中共がチベットを中国の不可分の領土とするよう要求し、ダライがこれを拒絶したことにある。
彼は、1987年及び88年に提案した《チベットに関する五項目和平案》と《ストラスブール提案》で中国に軍隊の撤退と求め、中共はこれを“形を変えた独立”(実際そのとおりである)と考えた。1991年にバルト三国が独立すると、それに勢いを得たダライは先述の提案を撤回すると発表し、断固として完全な独立を要求し、さらに新疆と内モンゴルにも呼応するよう呼びかけた。中共はなおもチベット側と話し合いを続けていたが、1993年8月11日、ダライは突然談話を発表し、「いままで“独立”を求めたことはなくただ“自治”を求めてきた。チベットの国防と外交は今までどおり中国が管轄し、チベットは“一国二制度”を実行し…」FONT COLOR="DARKGREEN">(同日のUPIニューデリー支局電より)と語った。
「いままで“独立”を求めたことはなくただ“自治”を求めてきた。チベットの国防と外交は今までどおり中国が管轄し、チベットは“一国二制度”を実行し…」FONT COLOR="DARKGREEN">(同日のUPIニューデリー支局電より)と語った。
忘却の彼方へ旅立ったみたいでちゅね^^
見方はどちらにもあるんでちゅね^^
上記の事がもし真実であるならば ダライのラマチャンもご都合主義ということになる。
それとね
話し合いを台無しにしたのは亡命チベット人の少壮グループによってコントロールされた“チベット亡命政府”である。彼らは、ダライがチベットを中国の一部分であると認め中共と妥協するのを恐れたがために、ダライの態度が軟化するやたちまち話し合いを打ち切り、ダライも為す術がなかったのであった。ダライは1959年以来、全力を注いで亡命チベット人たちに中国を憎むよう教育し独立を求めてきたのであったが、いまや彼自らがその教育を受けた亡命チベット人の人質になっているのだ。これ以後、ダライは何度も、「自分は独立を求めているのではなく、ただ自治を求めている」と声明を出し、中共との話し合いを求めている。中共は常に、「チベットが中国の一部であることを前提とする」と答え、これに対しダライは、「 “無条件の話し合い"という線で、チベットが中国の一部であるとは認めない」(新華社1997年11月4日電:“ダライ、北京の交渉条件を拒絶”)と譲らず、そのためいまだ話し合いを持つに至っていないのである。
こんな事も 少なからずあるんでないかい。
また 自治を求めるとは どんな事を意味するんでちょうか・・・
アメリカの政治学の教科書は、「自治の前提は中央政府の自治区に対する主権を認めることである」と指摘し、《合衆国政府政治学辞典》には、「自治は独立より低いレベルのもので、一つの主権国家に属するある地区がある程度の内政管理の権限を有するものである」とある。ダライが中国のチベットに対する主権を認めない以上は、彼らが言うところの自治とは実は形を変えただけの独立にすぎないということである。ダライの弟テンジン・ツォギャルはフランス人記者の取材を受けて、ダライの策略を暴露してしまった。「われわれはまず自治を求め、それから中国人を追い出す!イギリス人がインドから追い出されたように!…自治は必ずや現実となるだろう。」(《チベットの生と死》時報出版 台湾 1994年) ダライは、まずチベットが中国の一部であることを認めないままチベットに戻り“自治”に着手し、落ち着いた頃を見計らって独立を宣言し、1959年の出来事を再現する腹積もりなのだ。中共がダライと話し合いをもてない根本的な原因がここにある。ダライ側がなにものをも恐れないのは、西側の一部勢力がその後ろ盾になっているからである。
これは完全に政治でちゅね。
>民族自決を訴えるだけのもの
果たしてそれだけと捉える事ができるんでちょうか^^
(ロシアですら4島の中の1島ですら日本に返還することを拒んでいまちゅね。)
中共は、1979年3月、自ら提案してダライの兄ギャロ・トゥンドゥプを北京に招き訒小平に引き合わせて以来、ダライ側との折衝を十四年間続けてきたが、1993年8月、“チベット亡命政府”によって中断された。話し合いが実を結ばなかった根本原因は、中共がチベットを中国の不可分の領土とするよう要求し、ダライがこれを拒絶したことにある。
彼は、1987年及び88年に提案した《チベットに関する五項目和平案》と《ストラスブール提案》で中国に軍隊の撤退と求め、中共はこれを“形を変えた独立”(実際そのとおりである)と考えた。1991年にバルト三国が独立すると、それに勢いを得たダライは先述の提案を撤回すると発表し、断固として完全な独立を要求し、さらに新疆と内モンゴルにも呼応するよう呼びかけた。中共はなおもチベット側と話し合いを続けていたが、1993年8月11日、ダライは突然談話を発表し、「いままで“独立”を求めたことはなくただ“自治”を求めてきた。チベットの国防と外交は今までどおり中国が管轄し、チベットは“一国二制度”を実行し…」FONT COLOR="DARKGREEN">(同日のUPIニューデリー支局電より)と語った。
「いままで“独立”を求めたことはなくただ“自治”を求めてきた。チベットの国防と外交は今までどおり中国が管轄し、チベットは“一国二制度”を実行し…」FONT COLOR="DARKGREEN">(同日のUPIニューデリー支局電より)と語った。
忘却の彼方へ旅立ったみたいでちゅね^^
見方はどちらにもあるんでちゅね^^
上記の事がもし真実であるならば ダライのラマチャンもご都合主義ということになる。
それとね
話し合いを台無しにしたのは亡命チベット人の少壮グループによってコントロールされた“チベット亡命政府”である。彼らは、ダライがチベットを中国の一部分であると認め中共と妥協するのを恐れたがために、ダライの態度が軟化するやたちまち話し合いを打ち切り、ダライも為す術がなかったのであった。ダライは1959年以来、全力を注いで亡命チベット人たちに中国を憎むよう教育し独立を求めてきたのであったが、いまや彼自らがその教育を受けた亡命チベット人の人質になっているのだ。これ以後、ダライは何度も、「自分は独立を求めているのではなく、ただ自治を求めている」と声明を出し、中共との話し合いを求めている。中共は常に、「チベットが中国の一部であることを前提とする」と答え、これに対しダライは、「 “無条件の話し合い"という線で、チベットが中国の一部であるとは認めない」(新華社1997年11月4日電:“ダライ、北京の交渉条件を拒絶”)と譲らず、そのためいまだ話し合いを持つに至っていないのである。
こんな事も 少なからずあるんでないかい。
また 自治を求めるとは どんな事を意味するんでちょうか・・・
アメリカの政治学の教科書は、「自治の前提は中央政府の自治区に対する主権を認めることである」と指摘し、《合衆国政府政治学辞典》には、「自治は独立より低いレベルのもので、一つの主権国家に属するある地区がある程度の内政管理の権限を有するものである」とある。ダライが中国のチベットに対する主権を認めない以上は、彼らが言うところの自治とは実は形を変えただけの独立にすぎないということである。ダライの弟テンジン・ツォギャルはフランス人記者の取材を受けて、ダライの策略を暴露してしまった。「われわれはまず自治を求め、それから中国人を追い出す!イギリス人がインドから追い出されたように!…自治は必ずや現実となるだろう。」(《チベットの生と死》時報出版 台湾 1994年) ダライは、まずチベットが中国の一部であることを認めないままチベットに戻り“自治”に着手し、落ち着いた頃を見計らって独立を宣言し、1959年の出来事を再現する腹積もりなのだ。中共がダライと話し合いをもてない根本的な原因がここにある。ダライ側がなにものをも恐れないのは、西側の一部勢力がその後ろ盾になっているからである。
これは完全に政治でちゅね。
>民族自決を訴えるだけのもの
果たしてそれだけと捉える事ができるんでちょうか^^
(ロシアですら4島の中の1島ですら日本に返還することを拒んでいまちゅね。)
これは メッセージ 18343 (hipocrates5cando さん)への返信です.
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