映畫の《三國誌----赤壁》は上映しています
投稿者: movie2046picture 投稿日時: 2008/07/10 20:57 投稿番号: [42 / 42]
http://th.foxmovies.com.tw/redcliff
http://www.youtube.com/watch?v=tZYlX12HoT4&feature=related
208年1月
袁紹(えんしょう)を倒し中原(ちゅうげん:中國の中心地域をさす)を制した曹操(そうそう)は、南下し荊州(けいしゅう)攻略を實行にうつします。
流浪の将 劉備(りゅうび)は曹操に攻められて壓倒的兵力差により逃げるのが精一杯。
長坂(ちょうはん)での張飛(ちょうひ)や趙雲(ちょううん)の活躍により命からがら夏口(かこう)へと逃げ延びました。
荊州を難なく攻略した曹操はその勢いのままついに孫權(そんけん)のいる呉(ご)へ攻め入ろうとします。
劉備の軍師 諸葛孔明(しょかつこうめい)は自身の提唱する天下三分の計(てんかさんぶんのけい:弱小の劉備が國の3分の1をとる作戰)を成功させるべく、また劉備軍の生き殘りをかけてこのとき曹操との戰いに弱腰であった孫權軍を説得するために呉に趙雲を伴って向かうことになります。
諸葛孔明は孫權配下の魯肅(ろしゅく)・周瑜(しゅうゆ)などの抗戰派の援護もあり孫權の説得に成功し、連合軍を組んで曹操に立ち向かいます。
兵力は曹操軍20萬に對し劉備・孫權連合軍は5萬といわれています。
(80萬對3萬との説もあります。)
呉の指揮官は周瑜(しゅうゆ)と程普(ていふ)。
ちなみに、周瑜は文武兩道に通じており、また顔立ちもよく「美周郎(びじゅうろう)」と呼ばれ絶世の美女姉妹といわれる二喬 のひとり小喬(しょうきょう)を妻に持ちます。曹操はその美女小喬についても狙っていたといわれます。
劉備軍と劉キ軍2萬は、陸路を進撃、周瑜・程普の軍は水陸兩方から進撃します。孫權は後方の柴桑(さいそう)で本陣として待機しました。
兩軍が向かい合ったのは長江(ちょうこう)中流の「赤壁(せきへき)」と言う場所です。長江は川幅は大變廣く、まさに水軍戰での勝負が勝敗を分けるということになりました。
中國北方を領土とする曹操にとっては水軍戰は得意ではありません。
荊州計略に向かう前に訓練を十分に行ったとはいえ練習と實踐では勝手が違います。その點、周瑜 率いる呉軍は水軍戰に慣れています。
緒戰の戰いで案の定、曹操の指揮する水軍は連合軍の前にあっさりと敗れてしまいます。
兵力を立て直した曹操軍は長江の北岸の烏林(うりん)にうつり連合軍とやはり河を挾んで對峙します。
劉備軍は周瑜軍より後方に陣をとり、兩軍の出方をみる算段でした。
曹操軍は長江の高い波による船醉いに對處するため(疫病が流行ったとの話もあります)、船どうしをつなぎあわせて、水上の城塞を作り上げます。
呉軍は、兵力差があり強固に固めた相手にまともに戰っては勝機がなく
また短期決戰が勝機を握ると考えていました。
このとき呉の武将黄蓋(こうがい)が周瑜に 「火攻めの計」を進言し、周瑜もこれを採用します。
黄蓋が考えた策とは、”黄蓋自らが寝返る振りをして敵の舟に火を放つ”というものでした。ここで成功するためには黄蓋の降伏が成功する事と、火の勢いを廣げる必要がありました。
まず、寝返りの理由を信用させるために黄蓋は自身が孫權軍を恨んでいるという口實を作るために細工し、わざと罰棒(棒叩きの計)を受けて背中に負傷をおうという" 苦肉の策(くにくのさく)"をおこないます。こうして曹操に信用されて降伏は問題なくすすみます。
當然、兵法の達人である曹操も”火攻め”を警戒していたでしょうが、「東南からの風」が吹かなければ問題はないと思っていたことでしょう。
しかし、めったに吹かない「東南の風」が吹き事態は一變します。
(この場所はたまに北西の風が近くの山にあたり「東南の風」に變化することがあったようです。)
風が吹いた事ですかさず準備されていた黄蓋の作戰は實行に移されます。
黄蓋が連れだった船には枯れ草などをつみ油をかけられていました。
曹操軍近くまで來た黄蓋は一齊に自らの連れてきた船に火を放ちます。
曹操軍の船團(つなぎ合わされてすぐには身動きの取れない)に突撃します。
船をつなげている曹操軍は身動きがとれず火はすぐに燃え廣がります。その火が陸上の陣營にまで延燒しました。
その隙を逃さず周瑜の精鋭部隊が上陸し、曹操の本陣は總くずれとなり曹操は大敗を喫します。
曹操は江陵までなんとか脱出し、荊州を捨てて許都へ撤退します。
こうして赤壁の戰いは劉備・孫權連合の大勝利となりました。
http://www.youtube.com/watch?v=tZYlX12HoT4&feature=related
208年1月
袁紹(えんしょう)を倒し中原(ちゅうげん:中國の中心地域をさす)を制した曹操(そうそう)は、南下し荊州(けいしゅう)攻略を實行にうつします。
流浪の将 劉備(りゅうび)は曹操に攻められて壓倒的兵力差により逃げるのが精一杯。
長坂(ちょうはん)での張飛(ちょうひ)や趙雲(ちょううん)の活躍により命からがら夏口(かこう)へと逃げ延びました。
荊州を難なく攻略した曹操はその勢いのままついに孫權(そんけん)のいる呉(ご)へ攻め入ろうとします。
劉備の軍師 諸葛孔明(しょかつこうめい)は自身の提唱する天下三分の計(てんかさんぶんのけい:弱小の劉備が國の3分の1をとる作戰)を成功させるべく、また劉備軍の生き殘りをかけてこのとき曹操との戰いに弱腰であった孫權軍を説得するために呉に趙雲を伴って向かうことになります。
諸葛孔明は孫權配下の魯肅(ろしゅく)・周瑜(しゅうゆ)などの抗戰派の援護もあり孫權の説得に成功し、連合軍を組んで曹操に立ち向かいます。
兵力は曹操軍20萬に對し劉備・孫權連合軍は5萬といわれています。
(80萬對3萬との説もあります。)
呉の指揮官は周瑜(しゅうゆ)と程普(ていふ)。
ちなみに、周瑜は文武兩道に通じており、また顔立ちもよく「美周郎(びじゅうろう)」と呼ばれ絶世の美女姉妹といわれる二喬 のひとり小喬(しょうきょう)を妻に持ちます。曹操はその美女小喬についても狙っていたといわれます。
劉備軍と劉キ軍2萬は、陸路を進撃、周瑜・程普の軍は水陸兩方から進撃します。孫權は後方の柴桑(さいそう)で本陣として待機しました。
兩軍が向かい合ったのは長江(ちょうこう)中流の「赤壁(せきへき)」と言う場所です。長江は川幅は大變廣く、まさに水軍戰での勝負が勝敗を分けるということになりました。
中國北方を領土とする曹操にとっては水軍戰は得意ではありません。
荊州計略に向かう前に訓練を十分に行ったとはいえ練習と實踐では勝手が違います。その點、周瑜 率いる呉軍は水軍戰に慣れています。
緒戰の戰いで案の定、曹操の指揮する水軍は連合軍の前にあっさりと敗れてしまいます。
兵力を立て直した曹操軍は長江の北岸の烏林(うりん)にうつり連合軍とやはり河を挾んで對峙します。
劉備軍は周瑜軍より後方に陣をとり、兩軍の出方をみる算段でした。
曹操軍は長江の高い波による船醉いに對處するため(疫病が流行ったとの話もあります)、船どうしをつなぎあわせて、水上の城塞を作り上げます。
呉軍は、兵力差があり強固に固めた相手にまともに戰っては勝機がなく
また短期決戰が勝機を握ると考えていました。
このとき呉の武将黄蓋(こうがい)が周瑜に 「火攻めの計」を進言し、周瑜もこれを採用します。
黄蓋が考えた策とは、”黄蓋自らが寝返る振りをして敵の舟に火を放つ”というものでした。ここで成功するためには黄蓋の降伏が成功する事と、火の勢いを廣げる必要がありました。
まず、寝返りの理由を信用させるために黄蓋は自身が孫權軍を恨んでいるという口實を作るために細工し、わざと罰棒(棒叩きの計)を受けて背中に負傷をおうという" 苦肉の策(くにくのさく)"をおこないます。こうして曹操に信用されて降伏は問題なくすすみます。
當然、兵法の達人である曹操も”火攻め”を警戒していたでしょうが、「東南からの風」が吹かなければ問題はないと思っていたことでしょう。
しかし、めったに吹かない「東南の風」が吹き事態は一變します。
(この場所はたまに北西の風が近くの山にあたり「東南の風」に變化することがあったようです。)
風が吹いた事ですかさず準備されていた黄蓋の作戰は實行に移されます。
黄蓋が連れだった船には枯れ草などをつみ油をかけられていました。
曹操軍近くまで來た黄蓋は一齊に自らの連れてきた船に火を放ちます。
曹操軍の船團(つなぎ合わされてすぐには身動きの取れない)に突撃します。
船をつなげている曹操軍は身動きがとれず火はすぐに燃え廣がります。その火が陸上の陣營にまで延燒しました。
その隙を逃さず周瑜の精鋭部隊が上陸し、曹操の本陣は總くずれとなり曹操は大敗を喫します。
曹操は江陵までなんとか脱出し、荊州を捨てて許都へ撤退します。
こうして赤壁の戰いは劉備・孫權連合の大勝利となりました。