Re: サッカー・アジアカップの反日問題
投稿者: open_fire22 投稿日時: 2007/07/06 00:51 投稿番号: [21434 / 21882]
戦争映画ってぇのはあまり観ねぇんだがな、Gyaoで
『ワンス・アンド・フォーエバー』つぅのを観たわけよ。
ベトナム戦争系のは、『プラトーン』とか『地獄の黙示録』、『フルメタルジャケット』とか学校で観たけどよぉ
なんつぅか、なかなか感動もんだったわけな。
観ながら、俺はアメリカに自然に心情的共感をしているんだな。
だけどよぉ、最後の最後にベトナムの側に立ちたくなっている自分もいるのに気がつくだわな。。
同じアジア人だからなのかな?
でな、ラスで中佐の自宅前に車が止まって、奥さんが子どもたちにベッドに行きなさいと言ってドアを開ける。。
一瞬、ラスは涙かよ。。と覚悟するんだけどな。。
後はネタバレになっちまうから書かねえ。
戦争って、嫌だねぇ。
政治化とか、司令部とか、ましてジャーナリズムとか、実際の現場=戦場のひことなんか絶対に何もわからんと思うのよ。
生き残るだけが精一杯で、なんでも有り。
条約もへったくれもあるわけねぇむだろ。
ハーグなんたらかんたらを守るために死ぬか?
政治家や官僚、将軍、ジャーナリストにとって、戦争は政治や外交の一部ないしは延長なのかもしれない。
だけど、戦場は凶器と狂気が支配する異界でしかないのかもしれない。
日本鬼子と呼びたければ呼べばいい。
中華鬼子、アメリカ鬼子、そう、戦場とは鬼子しか存在し得ない場なのかもしれない。
今、平和な世界にいて、戦場とは程遠い場にいて、俺は思う。
一発の弾丸も他国に放ってはいけない、
放たたせてはいけないと。
それは人としての責務だと。
だが、相手が復讐のために3500万の血を要求するのなら、
(もしそれが実現したら)
次は私たちが要求するだろうと思う。
俺自身、俺の家族を守るために、銃を持って人を殺す(殺される)覚悟が無いことは無い。
人間は、平和を愛する存在だけど、同時に、愛するもののために殺し・殺されるのも厭わない存在でもあると思う。
だからこそ、その感情をコントロールする必要があると思う。
100人殺されたから、100人の命を要求するのは言わずもがな。
殺されたことにこだわり続けて、反省や謝罪もしないのならとか、声高に非難を繰り返すのは、同数の命を望んでいるのと同じことではないだろうか?
どこでこのサンサーラを断ち切る?
それとも永遠に続けるか?
これは メッセージ 21433 (open_fire22 さん)への返信です.
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