>>>>>周の時代
投稿者: worst_human83 投稿日時: 2005/09/19 20:54 投稿番号: [33897 / 44985]
号外さんも書いておられましたが、日本で大きく広まったのは、徳川政策の一環です。
徳川はひたすら他大名の圧殺、封じ込め、謀反取締りに力を注いでましたから、小笠原流(だったかなぁ?)を採用しました。
痺れさせることが目的だったんですね。
勿論それ以外にも、「礼儀で荒肝を縛る」といった目論見もありました。
また、「幕府」が正座を採用するのは徳川が始めてではなく、足利幕府時には伊勢流で縛り、鎌倉幕府時には、大江広元が平安時代には既に伝わっていた禅から正座というものに着目し、それを頼朝に献策し、頼朝に伺候するときは、諸将は必ずその形を取らせるようにした、と言われています。
家康のオリジナルではないんですね。
また、戦国時代にはその風習が一時廃れ、武田、上杉(長尾じゃない)、毛利、島津、大内、細川、山内、赤松などの守護大名や源氏以来の大名ではその風習が残りましたが、織田や徳川、浅井、長尾、などの成り上がり大名では、そういった風習はありませんでした。
ちなみに、北条家と斉藤家は、両者とも始祖が教養人(北条の場合は始祖が流派の人間だし)だったために、その風習が根付いたようです。
で、豊臣時代になると、多くの大名が豊臣秀吉の子飼いや織田の家臣だったものが増え、礼儀という礼儀がなくなりました。
それを引き締めるために、徳川幕府は正座を取り入れたんですね。
ちなみに、家康がそういった案を知ったのは、臨済宗の以心崇伝の献策があったため、と言われています。
崇伝が、足利幕府や鎌倉幕府の例にならったのか、自分の経験から痺れることを知っていたために献策したのか、それは定かではありませんが。
また、鎌倉、足利幕府時に完全に広まりきらなかったのは、執権、将軍に伺候するときのみに限っていたからだと言われています。
徳川幕府は、武士一般の教養として「正座」を広めたので、全国に広まったのだと言われています。
また、庶民への普及としては、まず第一に各種仏教、茶道などによる普及が考えられます。
仏教により「暫定的正座(軽く足を崩したり、猫背にしたり)」が広まり、茶道・各種典礼によって「正座文化」が確立した、といった感じでしょうか。
鎌倉時、日本には様々な宗派の仏教が勃興しましたが、それらの説教を聴くとき、庶民は筵を敷いて「暫定的正座」の形で傾聴したと歎異抄や伝光録の一文に書かれています(歎異抄じゃなかったかもしれん)。
その頃の庶民の多くは仏教徒だったので、まあ広まるのも早かったかと。
それが次第に変形し「上に対するときは正座」という形になり、足利末期には「上」だけでなく「目上」となり、徳川時代には、武士の影響、武士への憧れもあり「正座が基本」と変形したんじゃないかと言われてます。
鎌倉以前に関しては、ほとんど広まっていなかったといわれていますが、陰陽寮の人間は正座をしていたことが多かったそーです。
中国から正座が流入したのは、やはり仏教やその他色々な宗教が大きいでしょうねぇ。
と、長々と書いちまいました。
乱文ですいません。疑問があったら遠慮なく突っ込んでくださいな。
ちなみに、これはあくまで「一説」ですので、10年後にはひっくり返ってるかもしれません。
信長の一斉射撃の案がひっくり返ったように。
徳川はひたすら他大名の圧殺、封じ込め、謀反取締りに力を注いでましたから、小笠原流(だったかなぁ?)を採用しました。
痺れさせることが目的だったんですね。
勿論それ以外にも、「礼儀で荒肝を縛る」といった目論見もありました。
また、「幕府」が正座を採用するのは徳川が始めてではなく、足利幕府時には伊勢流で縛り、鎌倉幕府時には、大江広元が平安時代には既に伝わっていた禅から正座というものに着目し、それを頼朝に献策し、頼朝に伺候するときは、諸将は必ずその形を取らせるようにした、と言われています。
家康のオリジナルではないんですね。
また、戦国時代にはその風習が一時廃れ、武田、上杉(長尾じゃない)、毛利、島津、大内、細川、山内、赤松などの守護大名や源氏以来の大名ではその風習が残りましたが、織田や徳川、浅井、長尾、などの成り上がり大名では、そういった風習はありませんでした。
ちなみに、北条家と斉藤家は、両者とも始祖が教養人(北条の場合は始祖が流派の人間だし)だったために、その風習が根付いたようです。
で、豊臣時代になると、多くの大名が豊臣秀吉の子飼いや織田の家臣だったものが増え、礼儀という礼儀がなくなりました。
それを引き締めるために、徳川幕府は正座を取り入れたんですね。
ちなみに、家康がそういった案を知ったのは、臨済宗の以心崇伝の献策があったため、と言われています。
崇伝が、足利幕府や鎌倉幕府の例にならったのか、自分の経験から痺れることを知っていたために献策したのか、それは定かではありませんが。
また、鎌倉、足利幕府時に完全に広まりきらなかったのは、執権、将軍に伺候するときのみに限っていたからだと言われています。
徳川幕府は、武士一般の教養として「正座」を広めたので、全国に広まったのだと言われています。
また、庶民への普及としては、まず第一に各種仏教、茶道などによる普及が考えられます。
仏教により「暫定的正座(軽く足を崩したり、猫背にしたり)」が広まり、茶道・各種典礼によって「正座文化」が確立した、といった感じでしょうか。
鎌倉時、日本には様々な宗派の仏教が勃興しましたが、それらの説教を聴くとき、庶民は筵を敷いて「暫定的正座」の形で傾聴したと歎異抄や伝光録の一文に書かれています(歎異抄じゃなかったかもしれん)。
その頃の庶民の多くは仏教徒だったので、まあ広まるのも早かったかと。
それが次第に変形し「上に対するときは正座」という形になり、足利末期には「上」だけでなく「目上」となり、徳川時代には、武士の影響、武士への憧れもあり「正座が基本」と変形したんじゃないかと言われてます。
鎌倉以前に関しては、ほとんど広まっていなかったといわれていますが、陰陽寮の人間は正座をしていたことが多かったそーです。
中国から正座が流入したのは、やはり仏教やその他色々な宗教が大きいでしょうねぇ。
と、長々と書いちまいました。
乱文ですいません。疑問があったら遠慮なく突っ込んでくださいな。
ちなみに、これはあくまで「一説」ですので、10年後にはひっくり返ってるかもしれません。
信長の一斉射撃の案がひっくり返ったように。
これは メッセージ 33885 (yotaro47j さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552019565/kldabaaf_1/33897.html