反日日本人考
投稿者: chopper8111362 投稿日時: 2005/06/11 14:47 投稿番号: [32203 / 44985]
最近、「反日日本人」という言葉を目にします。しかし、「反日日本人」という言葉の定義が分かりません。「反日日本人」と言われる集団の目的も分かりません。
そこで、僕は「反日日本人」を以下のように考えました。
大東亜戦争敗戦直後、所謂「左翼知識人」が戦前の体制を厳しく批判しました。左翼知識人の批判対象は、戦前の政府政策に対してだけでなく、左翼知識人自身の行動にも及びます。彼等は、戦中の思想転向強要に屈したり、時には戦争協力を通じて教え子を戦場に送り出したりもしました。また、若い知識人には、実際に戦場に赴いた者も多かったはずです。
この、直接、間接の戦争体験が、彼等の贖罪感、原罪意識を形成します。そして、彼等の「贖罪、原罪」を罰し、且つ赦す「絶対神」として、「マルクス史観」が輝きを増すのです。
時代が進み、実体験としての戦争体験が無い世代に「贖罪、原罪」が受け継がれた時、その戦争体験がない世代は具体的な「贖罪、原罪」として、旧日本軍の残虐行為を持ち出します。そして、その旧日本軍の残虐行為という「贖罪、原罪」を「罰し、赦す神」として、昨今色褪せたマルクス主義と立ち替わり「中国、朝鮮」が台頭します。
戦争体験のない左翼知識人達が、「中国、朝鮮」という「絶対神」に阿り、自分らが関与したこともない日本軍の戦闘行為を「贖罪、原罪」として暴き立て、自分らだけが「罰し」から免れるように見苦しく免罪を求める姿が、「反日日本人」の正体なのではないでしょうか。
話は逸れますが、「原罪、贖罪」意識から「右翼」というものを考えてみましょう。(街宣右翼や利権右翼ではなく、思想としての右翼です。)
右翼の理論は、サムライの思想です。サムライとは戦闘者です。戦闘者とは、戦争となると躊躇無く他者を屠り、時には己自身も名無き屍として戦場にその肉体さらす運命を含んでいます。そこには、「原罪」や「贖罪」が差し挟む余地は毫毛もありません。
右翼は命の遣り取りに於いて、「原罪、贖罪」に嘖まれることはないのです。
彼等の、無名に終わるかもしれない魂に価値を与えるのは、「主(あるじ)に使える」行為に由ります。「主が作り出すであろう未来」の為に命を差し出すことが、彼等の存在意義になるのです。名もない命が細石(さざれ石)として、集まり、集団の象徴としての主の未来を構成する思想が「右翼思想」です。この思想は「武士道、葉隠れ」と通ずるものがあります。「武士道、葉隠れ」は命を軽んずる思想ではなく、不本意ながらも死に行かねばならなかった命に、最後の価値を与えるための思想です。
古典的ヤクザの思想も近いものがあります。「主」が「仁義」に置き換われば、ヤクザの思想です。やくざの、命の遣り取りにもまた「贖罪、原罪」は立錐の余地もありません。
これ等「贖罪、原罪意識の無い命の遣り取り」だけを、虎の衣とし、威嚇の材料として悪用する連中が、所謂「街宣右翼、利権右翼」であり、「暴力団」であります。
かつて戦争体験のもと崇高な精神を達成した左翼活動家、その輝きだけを盗み装った精神的弱者の虚勢が「反日日本人」だとするならば、上記の「街宣右翼、暴力団」の右翼思想流用も、「反日日本人」と相通じるものがあります。
「反日日本人」には、鏡像に右手が左手として映るようなもので、「暴力団」と同質の精神性の貧しさを感じてしまいます。
この「反日日本人考」は、「のぞき穴」的な狭視野からしか、考察しておりません。この問題は、様々な角度から検証すべき事象だと思います。参考となるご意見を頂けたら幸いです。
そこで、僕は「反日日本人」を以下のように考えました。
大東亜戦争敗戦直後、所謂「左翼知識人」が戦前の体制を厳しく批判しました。左翼知識人の批判対象は、戦前の政府政策に対してだけでなく、左翼知識人自身の行動にも及びます。彼等は、戦中の思想転向強要に屈したり、時には戦争協力を通じて教え子を戦場に送り出したりもしました。また、若い知識人には、実際に戦場に赴いた者も多かったはずです。
この、直接、間接の戦争体験が、彼等の贖罪感、原罪意識を形成します。そして、彼等の「贖罪、原罪」を罰し、且つ赦す「絶対神」として、「マルクス史観」が輝きを増すのです。
時代が進み、実体験としての戦争体験が無い世代に「贖罪、原罪」が受け継がれた時、その戦争体験がない世代は具体的な「贖罪、原罪」として、旧日本軍の残虐行為を持ち出します。そして、その旧日本軍の残虐行為という「贖罪、原罪」を「罰し、赦す神」として、昨今色褪せたマルクス主義と立ち替わり「中国、朝鮮」が台頭します。
戦争体験のない左翼知識人達が、「中国、朝鮮」という「絶対神」に阿り、自分らが関与したこともない日本軍の戦闘行為を「贖罪、原罪」として暴き立て、自分らだけが「罰し」から免れるように見苦しく免罪を求める姿が、「反日日本人」の正体なのではないでしょうか。
話は逸れますが、「原罪、贖罪」意識から「右翼」というものを考えてみましょう。(街宣右翼や利権右翼ではなく、思想としての右翼です。)
右翼の理論は、サムライの思想です。サムライとは戦闘者です。戦闘者とは、戦争となると躊躇無く他者を屠り、時には己自身も名無き屍として戦場にその肉体さらす運命を含んでいます。そこには、「原罪」や「贖罪」が差し挟む余地は毫毛もありません。
右翼は命の遣り取りに於いて、「原罪、贖罪」に嘖まれることはないのです。
彼等の、無名に終わるかもしれない魂に価値を与えるのは、「主(あるじ)に使える」行為に由ります。「主が作り出すであろう未来」の為に命を差し出すことが、彼等の存在意義になるのです。名もない命が細石(さざれ石)として、集まり、集団の象徴としての主の未来を構成する思想が「右翼思想」です。この思想は「武士道、葉隠れ」と通ずるものがあります。「武士道、葉隠れ」は命を軽んずる思想ではなく、不本意ながらも死に行かねばならなかった命に、最後の価値を与えるための思想です。
古典的ヤクザの思想も近いものがあります。「主」が「仁義」に置き換われば、ヤクザの思想です。やくざの、命の遣り取りにもまた「贖罪、原罪」は立錐の余地もありません。
これ等「贖罪、原罪意識の無い命の遣り取り」だけを、虎の衣とし、威嚇の材料として悪用する連中が、所謂「街宣右翼、利権右翼」であり、「暴力団」であります。
かつて戦争体験のもと崇高な精神を達成した左翼活動家、その輝きだけを盗み装った精神的弱者の虚勢が「反日日本人」だとするならば、上記の「街宣右翼、暴力団」の右翼思想流用も、「反日日本人」と相通じるものがあります。
「反日日本人」には、鏡像に右手が左手として映るようなもので、「暴力団」と同質の精神性の貧しさを感じてしまいます。
この「反日日本人考」は、「のぞき穴」的な狭視野からしか、考察しておりません。この問題は、様々な角度から検証すべき事象だと思います。参考となるご意見を頂けたら幸いです。
これは メッセージ 32201 (chopper8111362 さん)への返信です.
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