恋人さんへ(2)
投稿者: lilasnosakukoro 投稿日時: 2004/10/28 03:51 投稿番号: [24290 / 44985]
さて本論。
お疲れは取れたようですから、私がナゴヤン氏(バッフ・クラン族)に賛同できないさらなる部分を述べましょう。
私は、日本と韓国のみならず北朝鮮はなんらかの形でともにこの地球上に存在していかねばならない、と思っています。理由は簡単です。どの国も、今現在の位置から引越しをするわけにはいかないからです。その「なんらかの形でともに存在していかねばならない」という言葉をいちいち繰り返さずに短くいう言葉として、「共存」を使おうが「共生」を使おうが、私はそれは個人の感性であってその中身について意見を交換したほうがよいと思います。
その点では、恋人さんがよくおっしゃる、「そんな信頼感のないドライな関係を共生だなんて私は認めない」というのも一つの意見、「ドライな共生から友好、そして赦しを含んだものへ」というナゴヤン氏の見解も一つの意見であり、そういう言葉を使いたがるから○○である、という意見は討論になっていないと私の目には見えます。
私にとっての問題は、韓国(北朝鮮は論外なので視野の外に置きます)とのあいだに、広範囲にわたる信頼感や相互の赦しが行き交う関係などおそらく人類最後の日まで訪れないだろうという点をナゴヤン氏は直視していないのではないか、と思える点です。(ここまでは私の問題提起です。以下が証明にあたります)
そもそも、隣国と和気藹々と仲良しこよしをしている国なんて地球上にいくつあるでしょうか? ベトナムとカンボジアなんて、日韓どころではない憎しみ合いの連鎖ですよ。(参考:故近藤紘一氏の著作など)インドとパキスタンは、互いに核兵器を確保していがみ合っています。ヨーロッパでさえ、英・仏・独は互いに牽制しあっています。ヨーロッパの周辺では、ギリシアとトルコがこれまた因縁のにらみ合いをやっています。
地球上もっとも穏やかなアメリカ合衆国とカナダのあいだでさえ、わだかまりはあるのです。『赤毛のアン』シリーズを読めば、田舎のおばさんたちが「あの人は合衆国帰りの人だから」とひそひそ噂をしているシーンをときどき見かけますが、そのニュアンスは、「なにをしてきたかわからない、いかがわしさの抜けない人物」というものです。また、『赤毛のアン』が合衆国でテレビドラマになったとき、学校に合衆国の旗が翻っているシーンを見て著者のモンゴメリは激怒したそうです。
そして、これは私の経験です。あるカナダ人と話をしているとき、カナダはアメリカと戦争をしたとき(おそらく独立戦争のときだと思われます)ホワイトハウスを陥落させたことがある。これは必ずカナダの教科書に出てくるが、アメリカの教科書には1行も出てこない、と。この話をしたとき、相手のカナダ人は満面の笑みを浮かべていました。
以上の例から考えられることは、おそらく隣国同士というものはただそれだけの理由でいがみ合うことが多々あるものだ(すべての隣国が、とは言いません)ということです。
ここまでが、ナゴヤン氏流の「共生」観に賛同できない理由、あるいは実例による証明です。
しかしもう一ついえることは、それでも、ベトナムとカンボジア、インドとパキスタン、英・仏・独、ギリシアとトルコ、そして合衆国とカナダのあいだには交流がある、ということです。これを閉ざすことは物理的にも心理的にも不可能です。その不可能なことを、日韓両国のあいだだけではできる、と思うこと、主張することは、私の言葉で言えば幻想です。
以上により、私は、恋人さん流の「信頼ある共生」もナゴヤン氏の「共生から友好へ。そして双方向の赦し合いを」も、ともに、「見たくなくとも見なければならない現実」を見ていない、と結論づけるのです。
つづきます。
お疲れは取れたようですから、私がナゴヤン氏(バッフ・クラン族)に賛同できないさらなる部分を述べましょう。
私は、日本と韓国のみならず北朝鮮はなんらかの形でともにこの地球上に存在していかねばならない、と思っています。理由は簡単です。どの国も、今現在の位置から引越しをするわけにはいかないからです。その「なんらかの形でともに存在していかねばならない」という言葉をいちいち繰り返さずに短くいう言葉として、「共存」を使おうが「共生」を使おうが、私はそれは個人の感性であってその中身について意見を交換したほうがよいと思います。
その点では、恋人さんがよくおっしゃる、「そんな信頼感のないドライな関係を共生だなんて私は認めない」というのも一つの意見、「ドライな共生から友好、そして赦しを含んだものへ」というナゴヤン氏の見解も一つの意見であり、そういう言葉を使いたがるから○○である、という意見は討論になっていないと私の目には見えます。
私にとっての問題は、韓国(北朝鮮は論外なので視野の外に置きます)とのあいだに、広範囲にわたる信頼感や相互の赦しが行き交う関係などおそらく人類最後の日まで訪れないだろうという点をナゴヤン氏は直視していないのではないか、と思える点です。(ここまでは私の問題提起です。以下が証明にあたります)
そもそも、隣国と和気藹々と仲良しこよしをしている国なんて地球上にいくつあるでしょうか? ベトナムとカンボジアなんて、日韓どころではない憎しみ合いの連鎖ですよ。(参考:故近藤紘一氏の著作など)インドとパキスタンは、互いに核兵器を確保していがみ合っています。ヨーロッパでさえ、英・仏・独は互いに牽制しあっています。ヨーロッパの周辺では、ギリシアとトルコがこれまた因縁のにらみ合いをやっています。
地球上もっとも穏やかなアメリカ合衆国とカナダのあいだでさえ、わだかまりはあるのです。『赤毛のアン』シリーズを読めば、田舎のおばさんたちが「あの人は合衆国帰りの人だから」とひそひそ噂をしているシーンをときどき見かけますが、そのニュアンスは、「なにをしてきたかわからない、いかがわしさの抜けない人物」というものです。また、『赤毛のアン』が合衆国でテレビドラマになったとき、学校に合衆国の旗が翻っているシーンを見て著者のモンゴメリは激怒したそうです。
そして、これは私の経験です。あるカナダ人と話をしているとき、カナダはアメリカと戦争をしたとき(おそらく独立戦争のときだと思われます)ホワイトハウスを陥落させたことがある。これは必ずカナダの教科書に出てくるが、アメリカの教科書には1行も出てこない、と。この話をしたとき、相手のカナダ人は満面の笑みを浮かべていました。
以上の例から考えられることは、おそらく隣国同士というものはただそれだけの理由でいがみ合うことが多々あるものだ(すべての隣国が、とは言いません)ということです。
ここまでが、ナゴヤン氏流の「共生」観に賛同できない理由、あるいは実例による証明です。
しかしもう一ついえることは、それでも、ベトナムとカンボジア、インドとパキスタン、英・仏・独、ギリシアとトルコ、そして合衆国とカナダのあいだには交流がある、ということです。これを閉ざすことは物理的にも心理的にも不可能です。その不可能なことを、日韓両国のあいだだけではできる、と思うこと、主張することは、私の言葉で言えば幻想です。
以上により、私は、恋人さん流の「信頼ある共生」もナゴヤン氏の「共生から友好へ。そして双方向の赦し合いを」も、ともに、「見たくなくとも見なければならない現実」を見ていない、と結論づけるのです。
つづきます。
これは メッセージ 24289 (lilasnosakukoro さん)への返信です.
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