ttt98ppo氏へ(4)
投稿者: lilasnosakukoro 投稿日時: 2004/09/26 13:20 投稿番号: [22194 / 44985]
>私がクリスチャンであると宣言したならば、リラさんからこのような発言が来て、私を叩く材料になる事は予想していました・・・
だから本当は言いたくなかったのですが・・・
ではそのご決心を貫かれ、言いたくない(言って貫く覚悟のない)ことはいっさいおっしゃらぬことだ。中国のことわざには「覆水盆に帰らず」というものがある。(ご存知だろうが)
さらに、
>ところで、リラさん自身はクリスチャンなのですか?
というご質問をされながら、(おなじ質問をなごやん殿にもなされていたが。なお私に関するこのご質問にはのちにお答えする)
>ただ、前にも書いたように、もう私をキリスト教関連で叩くのはやめてもらっても良いですか?
と書かれるのは、まさにダブルスタンダードだろう。
>前にも言いましたが、クリスチャンと言っても所詮人間です。
完璧な人間にはなれるはずも無いのです。
当然だ。
クリスチャンとは、欠けた器であるという自覚を持つ者ではないか。だからこそ、
>「罪を許し合いなさい」とも説いています。
つくづく聖書は、奥が深いと思います。
とおっしゃっている言葉に賛成する。
そして、それだからこそ、
「先にいる多くのものが後になり、後にいる多くのものが先になる」という言葉を先のレスで記した。
>未信者であれば、真実は死んでからしかわからないという事です。
人間は、誰しも必ず死を迎えるのですが? その時になって真実を知ると申し上げたのです。
これは、キリスト教徒独自の傲慢。人はそれぞれその人生に応じた場所に辿りつく。それがどこかは、主なるキリストの父(アラー/天帝/阿弥陀仏等々)のみがご存知だ。
>聖書では、イエスの弟子たちも、イエスキリスト本人でさえ、
信仰を持たない者、異端者、卑怯者に対しては忌み嫌っておられ、声を上げている事もあります。
イエスご自身が、そのような者たちに対して声を荒げておられる箇所があったらお教え頂けないだろうか。
私は先に書いたように、幼少期をプロテスタント派の日曜学校で過ごした。母がクリスチャンだったので。だが、父は浄土真宗東本願寺派の敬虔な門徒だったから、私のなかには、絶えずキリスト教の洗礼を受けるか、真宗門徒になるかの葛藤があった。
さらに、私がどうしても洗礼を受けることに踏みきれなかったのは、この「異端問題」「異教徒問題」だったのだ。
これも以前投稿したことではあるが(当然お読みになっておられるだろうが)、私は小学校5年生のとき、以下の本を読んだ。
http://plaza24.mbn.or.jp/~nonfiction/majogari.htm
この時のショックはいまだに心から去らない。キリスト教徒とはなんと恐ろしいことを歴史に残してきた人々なのだろうと、ガタガタ震える思いだった。
そしてその後、
○橋口倫介 十字軍 : その非神話化 岩波書店 1974年 岩波新書 ; 青-9
を読み、ますますその思いを強くしたのだ。
今の私には、なにもキリスト教徒だけが狂信的に異教徒を殺戮してきたわけではないことはわかっている。
ただ、内部で「そっちは異端」「そっちこそ異端」と言い合って相手側(カソリック・プロテスタント双方が、だ)を拷問にかけ、火炙りにまでする制度を作り上げたのはキリスト教だけだと判断している。そして、そのあまりの残酷さに自らが耐えられなくなり、その結果、世界で最も早く啓蒙思想が生み出されたのだとも思う。
その私がそれでもクリスチャンの洗礼を受けたのは、どのような思想に惹かれようとも自分が絶対者として思い浮かべる存在は「主イエス・キリストの父」としてしか描けないと覚悟を決めたからだ。しかし、私は、現在のキリスト教の教会組織そのものにはいっさい魅力を感じていない。むしろ、仏教哲学、中国思想、ギリシア思想などのほうに親近感を持つ。
だから、
>リラさん自身はクリスチャンなのですか?
というご質問には、
「異端の、クリスチャンです」
とお答えする以外に術がない。
最後に、私がもっとも好きな聖書の言葉を挙げよう。
「わたしは、神が人の子らにお与えになった務めを見極めた。神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない」(コヘレトの言葉 3−10〜11)
だから本当は言いたくなかったのですが・・・
ではそのご決心を貫かれ、言いたくない(言って貫く覚悟のない)ことはいっさいおっしゃらぬことだ。中国のことわざには「覆水盆に帰らず」というものがある。(ご存知だろうが)
さらに、
>ところで、リラさん自身はクリスチャンなのですか?
というご質問をされながら、(おなじ質問をなごやん殿にもなされていたが。なお私に関するこのご質問にはのちにお答えする)
>ただ、前にも書いたように、もう私をキリスト教関連で叩くのはやめてもらっても良いですか?
と書かれるのは、まさにダブルスタンダードだろう。
>前にも言いましたが、クリスチャンと言っても所詮人間です。
完璧な人間にはなれるはずも無いのです。
当然だ。
クリスチャンとは、欠けた器であるという自覚を持つ者ではないか。だからこそ、
>「罪を許し合いなさい」とも説いています。
つくづく聖書は、奥が深いと思います。
とおっしゃっている言葉に賛成する。
そして、それだからこそ、
「先にいる多くのものが後になり、後にいる多くのものが先になる」という言葉を先のレスで記した。
>未信者であれば、真実は死んでからしかわからないという事です。
人間は、誰しも必ず死を迎えるのですが? その時になって真実を知ると申し上げたのです。
これは、キリスト教徒独自の傲慢。人はそれぞれその人生に応じた場所に辿りつく。それがどこかは、主なるキリストの父(アラー/天帝/阿弥陀仏等々)のみがご存知だ。
>聖書では、イエスの弟子たちも、イエスキリスト本人でさえ、
信仰を持たない者、異端者、卑怯者に対しては忌み嫌っておられ、声を上げている事もあります。
イエスご自身が、そのような者たちに対して声を荒げておられる箇所があったらお教え頂けないだろうか。
私は先に書いたように、幼少期をプロテスタント派の日曜学校で過ごした。母がクリスチャンだったので。だが、父は浄土真宗東本願寺派の敬虔な門徒だったから、私のなかには、絶えずキリスト教の洗礼を受けるか、真宗門徒になるかの葛藤があった。
さらに、私がどうしても洗礼を受けることに踏みきれなかったのは、この「異端問題」「異教徒問題」だったのだ。
これも以前投稿したことではあるが(当然お読みになっておられるだろうが)、私は小学校5年生のとき、以下の本を読んだ。
http://plaza24.mbn.or.jp/~nonfiction/majogari.htm
この時のショックはいまだに心から去らない。キリスト教徒とはなんと恐ろしいことを歴史に残してきた人々なのだろうと、ガタガタ震える思いだった。
そしてその後、
○橋口倫介 十字軍 : その非神話化 岩波書店 1974年 岩波新書 ; 青-9
を読み、ますますその思いを強くしたのだ。
今の私には、なにもキリスト教徒だけが狂信的に異教徒を殺戮してきたわけではないことはわかっている。
ただ、内部で「そっちは異端」「そっちこそ異端」と言い合って相手側(カソリック・プロテスタント双方が、だ)を拷問にかけ、火炙りにまでする制度を作り上げたのはキリスト教だけだと判断している。そして、そのあまりの残酷さに自らが耐えられなくなり、その結果、世界で最も早く啓蒙思想が生み出されたのだとも思う。
その私がそれでもクリスチャンの洗礼を受けたのは、どのような思想に惹かれようとも自分が絶対者として思い浮かべる存在は「主イエス・キリストの父」としてしか描けないと覚悟を決めたからだ。しかし、私は、現在のキリスト教の教会組織そのものにはいっさい魅力を感じていない。むしろ、仏教哲学、中国思想、ギリシア思想などのほうに親近感を持つ。
だから、
>リラさん自身はクリスチャンなのですか?
というご質問には、
「異端の、クリスチャンです」
とお答えする以外に術がない。
最後に、私がもっとも好きな聖書の言葉を挙げよう。
「わたしは、神が人の子らにお与えになった務めを見極めた。神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない」(コヘレトの言葉 3−10〜11)
これは メッセージ 22164 (ttt98ppo さん)への返信です.
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