Re: 何時までも、騒ぐな!!
投稿者: scorpionti 投稿日時: 2006/12/22 13:40 投稿番号: [25921 / 43252]
文字は読めるのでしょうね、しっかりと お読み下さい。
◆ 寄稿 日本の植民地時代を顧みて 元韓国・仁荷大学教授 朴贊雄
朝鮮は日本の植民地になったお陰で生活水準がみるみる向上した 平成15年11月号(通巻41号)より
日本の植民地時代に生まれ、数え年二十歳で終戦を迎えた者として、この世を去る前に、率直な心情を書き残したい気持でこの短文をつづる。
合併当時の事情
合併当時の事情「日本人は平和愛好の弱小民族である韓国を銃剣で踏みにじって植民地化し、36年間、虐政を施しながら土地と農産物を呵責なく収奪した。南北すべての朝鮮人は当時の亡国の辛さを思い浮かべると、今でも身の毛のよだつのを覚える」
これが今の南北朝鮮人の決まり文句になっている。だから、日本は韓国に対して多大な賠償金を支払わなくてはならないというわけで、日本は南の大韓民国に対して戦後賠償金を支払って国交を正常化した。
ところが、北朝鮮は北朝鮮なりに戦後賠償を当然のこととして期待しており、日本も、当面の拉致問題が解決され次第、国交正常化して多大な賠償金を支払うことに同意している状態だ。
僕はこのスジガキに対して少なからぬ憤怒感を抱く。
朝鮮が日本の植民地に陥る1905〜1910年当時の世界は弱肉強食の時代で、経済力や軍事力のひ弱な国は植民地獲得戦に乗り出している列強が競ってこれを食い物にした。
韓国の当時の経済力や軍事力は列強に比べればゼロに等しいから、当然に日・清・露三国の勢力角逐の場となった。そこを日本は、日清・日露の両戦役を勝ち取った余勢を駆って朝鮮を手に入れた。
これに対して、現代人が今の国際規約や国際慣習の尺度で当時を裁くのは不当である。
当時、日本の海軍はロシアのバルチック艦隊を日本海に迎えて全滅させている。日露戦役当時、仁川の沖合いには日本やアメリカ、ロシア等の軍艦が常時出没していたが、韓国には海軍もなければ軍艦もなかったとのことである。
もし韓国が中国やロシアの植民地になったと仮定するとき、韓国の政治や経済の発展は今の中国吉林省内の朝鮮族自治州、あるいは中央アジアのカザフスタンやウズベキスタンに在住する高麗族の水準にしか達し得なかったで
あろうと思われる。それよりは日本の植民地になった方がよかった、というのが僕の歴史認識である。
今なら世界のいかなる強大国家でも、いかなる弱小国家をも植民地化することは夢想できないばかりか、植民地化したが最後、そこの住民の生活を保障しなければならない羽目に陥ること必然である。故に、ある弱小国家が願ったとしても、まともな民主国家ならおいそれとこれを引き受けるわけにはいかないであろう。
植民地当時の状況
では植民地当時の状況では、植民地化された朝鮮の政治的・経済的・社会的・文化的状況はいかなるものであったのか。
日本の植民地期間は1910年(明治43年)8月29日から1945年(昭和20年)8月15日までの35年間である。保護国になった1905年11月17日からは40年になる。
合併当初から1919年(大正8年)3月1日に起こった全国的な独立万歳デモ事件に至るまでは朝鮮民衆による散発的な抵抗運動が続くが、同デモ事件以後、日本政府は同年8月に朝鮮総督を長谷川好道から齋藤實にかえ、朝鮮統治の原則を武断政治から文化政治に変更してから後は朝鮮民衆による抵抗はとみに衰えた。
軍事力も経済力も組織もない状態で、感情的な抵抗を試みたところで得るところが何もなかろうことは、誰の目にもはっきりと見えていたのだ。
当時の朝鮮は日本の植民地になったお陰で、文明開化が急速に進み、国民の生活水準がみるみるうちに向上した。学校が建ち、道路、橋梁、堤防、鉄道、電信・電話等が建設され、僕が小学校に入るころ(昭和8年)の京城はおちついた穏やかな文明国のカタチを一応整えていた。
日本による植民地化は、朝鮮人の日常の生活になんら束縛や脅威を与えなかった。これは何でもないことのように見えるかもしれないが、独立後の南韓や、北朝鮮における思想統制とそこからくる国民一般の恐怖感とを比べればよく分かる。南北朝鮮人は終戦後の独立によって、娑婆の世界から地獄に落ち込んだも同然であった。
僕のこのような事実描写に対して「非国民」あるいは「売国奴」呼ばわりする同胞も多かろうが、そういう彼らに対し、僕は一つの質間を投げかけたい。
日政時代に日本の官憲に捕えられて拷問され、裁判にかけられて投獄された人数及びその刑期と、独立後に、南韓または北朝鮮でそういう目に遭った人数とその刑期の、どちらが多く長かったであろうか、と。
◆ 寄稿 日本の植民地時代を顧みて 元韓国・仁荷大学教授 朴贊雄
朝鮮は日本の植民地になったお陰で生活水準がみるみる向上した 平成15年11月号(通巻41号)より
日本の植民地時代に生まれ、数え年二十歳で終戦を迎えた者として、この世を去る前に、率直な心情を書き残したい気持でこの短文をつづる。
合併当時の事情
合併当時の事情「日本人は平和愛好の弱小民族である韓国を銃剣で踏みにじって植民地化し、36年間、虐政を施しながら土地と農産物を呵責なく収奪した。南北すべての朝鮮人は当時の亡国の辛さを思い浮かべると、今でも身の毛のよだつのを覚える」
これが今の南北朝鮮人の決まり文句になっている。だから、日本は韓国に対して多大な賠償金を支払わなくてはならないというわけで、日本は南の大韓民国に対して戦後賠償金を支払って国交を正常化した。
ところが、北朝鮮は北朝鮮なりに戦後賠償を当然のこととして期待しており、日本も、当面の拉致問題が解決され次第、国交正常化して多大な賠償金を支払うことに同意している状態だ。
僕はこのスジガキに対して少なからぬ憤怒感を抱く。
朝鮮が日本の植民地に陥る1905〜1910年当時の世界は弱肉強食の時代で、経済力や軍事力のひ弱な国は植民地獲得戦に乗り出している列強が競ってこれを食い物にした。
韓国の当時の経済力や軍事力は列強に比べればゼロに等しいから、当然に日・清・露三国の勢力角逐の場となった。そこを日本は、日清・日露の両戦役を勝ち取った余勢を駆って朝鮮を手に入れた。
これに対して、現代人が今の国際規約や国際慣習の尺度で当時を裁くのは不当である。
当時、日本の海軍はロシアのバルチック艦隊を日本海に迎えて全滅させている。日露戦役当時、仁川の沖合いには日本やアメリカ、ロシア等の軍艦が常時出没していたが、韓国には海軍もなければ軍艦もなかったとのことである。
もし韓国が中国やロシアの植民地になったと仮定するとき、韓国の政治や経済の発展は今の中国吉林省内の朝鮮族自治州、あるいは中央アジアのカザフスタンやウズベキスタンに在住する高麗族の水準にしか達し得なかったで
あろうと思われる。それよりは日本の植民地になった方がよかった、というのが僕の歴史認識である。
今なら世界のいかなる強大国家でも、いかなる弱小国家をも植民地化することは夢想できないばかりか、植民地化したが最後、そこの住民の生活を保障しなければならない羽目に陥ること必然である。故に、ある弱小国家が願ったとしても、まともな民主国家ならおいそれとこれを引き受けるわけにはいかないであろう。
植民地当時の状況
では植民地当時の状況では、植民地化された朝鮮の政治的・経済的・社会的・文化的状況はいかなるものであったのか。
日本の植民地期間は1910年(明治43年)8月29日から1945年(昭和20年)8月15日までの35年間である。保護国になった1905年11月17日からは40年になる。
合併当初から1919年(大正8年)3月1日に起こった全国的な独立万歳デモ事件に至るまでは朝鮮民衆による散発的な抵抗運動が続くが、同デモ事件以後、日本政府は同年8月に朝鮮総督を長谷川好道から齋藤實にかえ、朝鮮統治の原則を武断政治から文化政治に変更してから後は朝鮮民衆による抵抗はとみに衰えた。
軍事力も経済力も組織もない状態で、感情的な抵抗を試みたところで得るところが何もなかろうことは、誰の目にもはっきりと見えていたのだ。
当時の朝鮮は日本の植民地になったお陰で、文明開化が急速に進み、国民の生活水準がみるみるうちに向上した。学校が建ち、道路、橋梁、堤防、鉄道、電信・電話等が建設され、僕が小学校に入るころ(昭和8年)の京城はおちついた穏やかな文明国のカタチを一応整えていた。
日本による植民地化は、朝鮮人の日常の生活になんら束縛や脅威を与えなかった。これは何でもないことのように見えるかもしれないが、独立後の南韓や、北朝鮮における思想統制とそこからくる国民一般の恐怖感とを比べればよく分かる。南北朝鮮人は終戦後の独立によって、娑婆の世界から地獄に落ち込んだも同然であった。
僕のこのような事実描写に対して「非国民」あるいは「売国奴」呼ばわりする同胞も多かろうが、そういう彼らに対し、僕は一つの質間を投げかけたい。
日政時代に日本の官憲に捕えられて拷問され、裁判にかけられて投獄された人数及びその刑期と、独立後に、南韓または北朝鮮でそういう目に遭った人数とその刑期の、どちらが多く長かったであろうか、と。
これは メッセージ 25912 (tikyuuwar さん)への返信です.
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