北朝鮮核開発問題

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日本人の汚い根性 1

投稿者: kanewatenkano 投稿日時: 2006/10/20 00:27 投稿番号: [13356 / 43252]
石川達三という作家は一番最初の芥川賞受賞作家だが
あの大東亜戦争のとき「生きている兵隊」とかを書いて
軍部から睨まれ起訴までされている

敗戦後は米軍から作品を東京裁判の資料として提出命令も受けたが
南京大虐殺まではなかったと石川達三は述べている





石川達三著   昭和30年7月   「不安の倫理」

聖書のなかに次のような話が書いてある。
或る葡萄園の主人が、朝はやく市場へ行って日雇の労働者をやとい、農場の仕事に行かせた。1日の労賃は1デナリの約束だった。ところが9時になってもまだ市場でぶらぶらしている者がいたので、それも農園に行かせた。
12時ごろ、また人を雇い、3時頃にもまた遊んでいる者を雇って農園に行かせた。夕方5時頃、まだ市場に立っている者があるので、どうしてぶらぶらしているのかと問うと、誰も雇ってくれないのですと答えた。主人は彼等をも農園に行かせた。

さて日が暮れて、主人は支配人に命じて、最後に雇ったものから順々に1デナリずつの労賃を払わせた。すると最初に雇われた者は、きっと自分たちは相当多くの賃金をもらえるだろうと期待していたところが、支配人は彼等にもやはり1デナリだけを支払った。

そこで彼等はぶつぶつ言い出した。「あの連中はたった1時間しか働かなかったし、我々は朝から働いたんだ。暑くてたまらなかったし、仕事も辛かった。それを同じ待遇にするのはひどいじゃないですか」

そこで主人は言った。「自分は何も不正なことはしていない。私は君たちと1デナリの約束をして、その通り支払ったではないか。自分の賃金だけ持って行くがいい。後で雇った者に私がいくら払おうと、それは私の勝手だ。それがなぜ君にとって不満なのか」

この寓話は日本人にとってはかなり耳のいたい話であろう。主人が言うように、彼のやった事に不正はない。しかし「不公平だ」と人々は言うにちがいない。1時間はたらいた者と10時間働いたものと同じ扱いにするのは、社会的に不正であるというかも知れない。だが、朝やとわれた人たちは1デナリの約束で満足して働いた筈である。自分がその約束で満足したものなれば、他人がいくら貰おうと、問題はない。それを問題にするのは、他人と自分とを比較するからである。

比較するということは、自分に信念がないからであり、自主性がないからである。これは女性には特に多く見かける性格である。他の女が着ているものを見て自分とくらべ、他人の指輪を見て自分と比較する。相手の家の収入と自分の家の収入をくらべ、それによって相手の夫人の装身具と自分のものを比べ、腹をたてたり自慢したりしたりする。自分に信念があり、方針があり、自主性があるならば、相手の家の収入もダイヤの指環も、何等問題にはならない筈である。それを嫉妬したり軽蔑したり腹を立てたりするのは、自分が確立されていなくて、相手によって常に動かされる、足もとの定まらない性格によるものであるのだ。朝から1デナリの約束で働き、それだけの物を受け取って、他人の収入などに心を乱されない労働者は、しっかりした「自己」を持っている人である。良い意味の個人主義である。その個人主義という性格が、日本人には甚だ乏しい。だから多くの日本人は、朝から働いた労働者のように、他人の収入を見てぶつぶつ言うに違いない。

今日の社会では、公平ということ勿論大切なことである。右の寓話はそういう点で、文句の言いようはあるだろう。しかしそもそも公平とは何であるか。要するに比較の問題であって、絶対的公平などというものは、この社会には無い。働いた時間の長さで賃金を定めるのも1部分の公平にすぎない。彼がやった仕事の量を比較しなくてはならない。その仕事の量も、量だけではなく、結果の上手下手もある訳だ。こう考えてくると公平などというものは、1つの観念にすぎないものになってしまう。したがって、公平を要求する人たちの気持ちは、どこまで行っても満足しない。常に不平であり、常に他人を羨望するようになるに違いない。
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