Re: 正直、日本人は運が良かっただけだ
投稿者: isamu309 投稿日時: 2008/02/20 20:25 投稿番号: [66173 / 85019]
再度のヨコ失礼します。
織田信長に関して多少誤解があるようですので、トピズレとは知りつつ補足させていただきます。
>信長は奇襲戦法を得意とする、<
信長と言うと桶狭間の寡兵で大敵に勝利したイメージが強いのですが、あれほどの戦を行いながら、実際に彼が寡兵で戦に挑んだことは生涯3度しかありません。
彼の戦術は、常に敵よりも優勢な数の兵力を準備する極めて堅実な戦い方(孫子そのもの)をしており、従って奇襲といったリスクの多い戦い方は、結果としてそうなった場合もありますが、意図的に実施した例は無いのように思われます。(常に、数的に優勢な状況を作り出す為に、織田軍団は機動力を重視しており、戦国時代の機動速度の常識を打ち破るような速度での移動を行った記録が多数残っています。これが結果的に、対戦相手に対する心理的な奇襲にはなったとは思います。)
桶狭間の戦いも谷で休息していた今川義元を山側から奇襲したというのは間違いで、最近の研究では丘の上で休息していた今川方に正面から突撃した、と言うのが定説になってきています。(これも今側方にすれば、有りえないことが起こった訳ですから奇襲と言えば奇襲ですが。)
また寡兵で挑んだ3度の戦全てにおいて全て勝利しているのですが、このとき信長は白刃を翻して自ら先頭に立って戦ったと記録されています。当時の大将としての常識からは逸脱した行動で、兵の士気はいやがうえにも高まったようです。
>その戦法に情け容赦なしとする残虐性をも持ち合わせていた天性のものであったのかそれとも戦乱の世を生きるすべを天才は生まれながらに身につけてこの世に生れ落ちたのか、そこで信長を育てた人物を失念しておりますが兎にも角にも【啼かぬなら殺してしまえ ほととぎす】の名言もあるように これまた歴史上の人物像にある定評があったかと思い出しております、そして片方では大変な【虚けもの】であったとする批評めいた人物像も浮かび上がっております。<
信長は、過激な行動ばかりがクローズアップされますが、実際には(中世の余韻抜けやらぬ時期にそれだけでも凄いことですが)徹底した合理主義者だっただけのようです。虚け者と呼ばれたのは、彼の中世封建的な常識や迷信に捕われない合理主義的な思考やセンスが、当時の常識からかけ離れていたが故に、当時の『常識人』から見た場合に、ただ奇矯な行動をする『虚け者』に見えた、と言う側面があります。
長島一向宗の殲滅に関しては、もともと彼ら一向宗が休戦協定を一方的に破ったこと、一向宗の兵が非正規兵(現在で言うゲリラ活動やテロ)で、戦闘行為を男女問わず行ってくるために、事実上民間人と兵を区別することが出来なかった為、合理的な観点から殲滅したと言う側面もあります。子供まで殺すことは無い、と言われるかも知れませんが、そうすることで他の一向宗の蜂起を阻止し、結果として犠牲を少なくした、と言う事実も否定できません。また比叡山の焼き討ちにしても、既にご説明した通り、そうするなりの理由があった訳です。
むしろ性格的には優しいと言っても良いくらいで、例えば後の豊臣秀吉が浮気ばかりすることで悲しんでいる正妻の於寧に手紙をしたため、慰めるような気配りを見せていますが、これは当時の君主としては極めて珍しい行動です。
また老臣だった、佐久間信盛、林秀貞、安藤守就等を些細な理由で放逐したりしていますが、後に信盛の死後嫡子正勝を特段の理由も無く再仕官させるなど、それぞれのその後に就いても気に掛けていた様にも見えます。
ただ度重なる裏切りに苛まれ、徐々に人を信じることが出来なくなって行ったのは事実だと思われます。特に彼の性格の変化の転機になったのが、朝倉攻めの際の浅井の裏切りだったのではないでしょうか。まさに彼にとって九死に一生の出来事でしたが、逆に言えばそれほど妹婿の浅井を信じていた訳ですから、信長の心に残した傷は大きかったと思われます。またこれ以後、彼の家臣に対する接し方が明確に変わった様にも見えます。
織田信長に関して多少誤解があるようですので、トピズレとは知りつつ補足させていただきます。
>信長は奇襲戦法を得意とする、<
信長と言うと桶狭間の寡兵で大敵に勝利したイメージが強いのですが、あれほどの戦を行いながら、実際に彼が寡兵で戦に挑んだことは生涯3度しかありません。
彼の戦術は、常に敵よりも優勢な数の兵力を準備する極めて堅実な戦い方(孫子そのもの)をしており、従って奇襲といったリスクの多い戦い方は、結果としてそうなった場合もありますが、意図的に実施した例は無いのように思われます。(常に、数的に優勢な状況を作り出す為に、織田軍団は機動力を重視しており、戦国時代の機動速度の常識を打ち破るような速度での移動を行った記録が多数残っています。これが結果的に、対戦相手に対する心理的な奇襲にはなったとは思います。)
桶狭間の戦いも谷で休息していた今川義元を山側から奇襲したというのは間違いで、最近の研究では丘の上で休息していた今川方に正面から突撃した、と言うのが定説になってきています。(これも今側方にすれば、有りえないことが起こった訳ですから奇襲と言えば奇襲ですが。)
また寡兵で挑んだ3度の戦全てにおいて全て勝利しているのですが、このとき信長は白刃を翻して自ら先頭に立って戦ったと記録されています。当時の大将としての常識からは逸脱した行動で、兵の士気はいやがうえにも高まったようです。
>その戦法に情け容赦なしとする残虐性をも持ち合わせていた天性のものであったのかそれとも戦乱の世を生きるすべを天才は生まれながらに身につけてこの世に生れ落ちたのか、そこで信長を育てた人物を失念しておりますが兎にも角にも【啼かぬなら殺してしまえ ほととぎす】の名言もあるように これまた歴史上の人物像にある定評があったかと思い出しております、そして片方では大変な【虚けもの】であったとする批評めいた人物像も浮かび上がっております。<
信長は、過激な行動ばかりがクローズアップされますが、実際には(中世の余韻抜けやらぬ時期にそれだけでも凄いことですが)徹底した合理主義者だっただけのようです。虚け者と呼ばれたのは、彼の中世封建的な常識や迷信に捕われない合理主義的な思考やセンスが、当時の常識からかけ離れていたが故に、当時の『常識人』から見た場合に、ただ奇矯な行動をする『虚け者』に見えた、と言う側面があります。
長島一向宗の殲滅に関しては、もともと彼ら一向宗が休戦協定を一方的に破ったこと、一向宗の兵が非正規兵(現在で言うゲリラ活動やテロ)で、戦闘行為を男女問わず行ってくるために、事実上民間人と兵を区別することが出来なかった為、合理的な観点から殲滅したと言う側面もあります。子供まで殺すことは無い、と言われるかも知れませんが、そうすることで他の一向宗の蜂起を阻止し、結果として犠牲を少なくした、と言う事実も否定できません。また比叡山の焼き討ちにしても、既にご説明した通り、そうするなりの理由があった訳です。
むしろ性格的には優しいと言っても良いくらいで、例えば後の豊臣秀吉が浮気ばかりすることで悲しんでいる正妻の於寧に手紙をしたため、慰めるような気配りを見せていますが、これは当時の君主としては極めて珍しい行動です。
また老臣だった、佐久間信盛、林秀貞、安藤守就等を些細な理由で放逐したりしていますが、後に信盛の死後嫡子正勝を特段の理由も無く再仕官させるなど、それぞれのその後に就いても気に掛けていた様にも見えます。
ただ度重なる裏切りに苛まれ、徐々に人を信じることが出来なくなって行ったのは事実だと思われます。特に彼の性格の変化の転機になったのが、朝倉攻めの際の浅井の裏切りだったのではないでしょうか。まさに彼にとって九死に一生の出来事でしたが、逆に言えばそれほど妹婿の浅井を信じていた訳ですから、信長の心に残した傷は大きかったと思われます。またこれ以後、彼の家臣に対する接し方が明確に変わった様にも見えます。
これは メッセージ 66120 (boston_redsox_xx さん)への返信です.
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