Re: 正直、日本人は運が良かっただけだ
投稿者: isamu309 投稿日時: 2008/02/11 14:29 投稿番号: [65497 / 85019]
ヨコから失礼します。
>戦国時代に遡りますが、信長が、かつて、一向宗を焼き討ちした史実についてなんですが、信長は何故、あのような残酷な仕打ちを行ったのでしょうか?<
諸説ありますが比較的可能性の高い説としては、本来中立を守るべき宗教勢力である比叡山が、朝倉軍の兵を匿うなどの利敵行為を行ったことが原因だとする説が有力です。
特に比叡山は、洛北の要地に位置しており、この位置に朝倉軍などの敵対勢力が残った場合、織田軍は京都に常に兵力を展開する必要があり、ただでさえ敵対勢力の包囲下にあって相対的に劣勢な織田軍の兵力を分散する結果となるため、中立さえ守らない比叡山を焼き討ちし、他の軍に使用できないようにする必要があったものと思われます。
実際、浅井、朝倉軍が比叡山にこもったときに、信長は最低限中立を守るよう比叡山に申し入れていますが、このとき比叡山側は信長の申し入れを拒否しています。
また一説では、比叡山は寺社とはいえ多数の僧兵を擁し、実体は戦国大名並みの軍事力を持っていたと言われています。これらの僧兵は酒色にふけり町では乱暴狼藉を働くなど凡そ僧とは名ばかりの集団だったようです。また比叡山は、琵琶湖の海運に多くの権益(輸送に対する徴税権)を持っており、信長が進める商業流通の自由化を柱とした重商政策とはまっこうから対立する勢力でした。
信長は、極めて峻厳な性格だったため、一方で民衆に来世を説きながら、一方で現世利益に執着する中世的寺社勢力を嫌悪しており、そう言った中世的な価値観や体制を破壊しようとした、とする説もあります。
現実主義の信長ですから、前者の説の方が主たる要因だとは思いますが、まだ迷信の多い時代に寺社を焼く、と言う行為を躊躇しなかった心理的な背景としては、後者の説も十分に考えられますし、仮に比叡山が浅井、朝倉を追い出し、中立を守っていたとしても、いずれ織田軍との衝突は避けられなかったと思われます。
これは メッセージ 65494 (boston_redsox_xx さん)への返信です.
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