Re: 中国餃子を食べたんだ
投稿者: ywnpn069 投稿日時: 2008/02/02 10:30 投稿番号: [65184 / 85019]
>俺は新羅の虎だ
・・・新羅の虎ねえ・・・・ぷっ
ベロと呼ぶのは「世界人」の間抜けだけだ。どういう関係だ?お前の親父か身内だろうな(大笑)お前がキモベロと言うたびに間抜けをさらしている。
「[編集] 寛平の韓寇
『日本紀略』『扶桑略記』寛平五年(893年)および六年(894年)の条にみえる熊本、長崎、壱岐、対馬にかけての入寇とその征伐の記録。
893年5月11日大宰府は新羅の賊を発見。「新羅の賊、肥後国飽田郡に於いて人宅を焼亡す。又た、肥前国松浦郡に於いて逃げ去る」。翌894年4月、対馬島を襲ったとの報せを受ける。沿岸国に警固を命じ、参議藤原国経を権帥として下すなどを定めたが、賊は逃げていった。この間遣唐使が定められたが、一説に唐の関与を窺うためであったともいう。
9月19日、大宰府の飛駅(はやうま)の使が突如征伐の成功を伝え、遣唐使も中止された(翌年9月にも壱岐島の官舎が賊のため全焼したことを伝えているが、これはおそらく本年度のこととみられる)。9月5日の朝、対馬守文屋善友(文)は郡司士卒を励まして賊徒45艘を弩をかまえた数百の軍勢で迎え撃った。雨のように射られ逃げていく賊を追撃し、220人を射殺した。また、船11、太刀50、桙1000、弓胡?(やなぐい)各110、盾312にものぼる莫大な兵器をうばい、賊ひとりを生け捕った。
そのもののいうには、新羅は不作で餓えに苦しみ、倉も尽きて王城も例外ではなく、「王、仰せて、穀絹を取らんが為に帆を飛ばして参り来たる」という。その全容は大小の船100艘、乗員2500、逃げ帰った将軍はなお3人いて、とくにひとりの「唐人」が強大である、と証言した。」
・・・さっさと反論か謝罪しろよ、新羅の豚!
これは メッセージ 65172 (sinra_saburou さん)への返信です.
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