旅順要塞203高地戦勝利百年を祝う
投稿者: utsukusiikuninihonn 投稿日時: 2004/12/04 22:07 投稿番号: [4963 / 85019]
世紀が変わり、総力戦の始まりを知らせ、20世紀の幕開けとなった戦い、日露戦争。
日露戦争の前半戦の中でも、ことに忘れてはならない旅順要塞203高地攻防戦。
丁度、今から百年前の1904年11月末から12月5日にかけて戦われました。
日本軍第三軍の旅順要塞攻略の手拙さを今から批判するのは容易ですが、英独仏露の四カ国がその僅か十年後、さらに拙劣な作戦、砲列、機関銃列への単純突撃の繰り返しで百万単位の損害を四年以上続けた事を考えると、乃木将軍と参謀陣はさておいても、第三軍の将兵達が、知恵者に見えます。
旅順要塞戦における彼我の戦力差は、延べ動員で日本15万人対ロシア5万人、砲数だけ勝るものの、要塞に歯が立たず。
その前の日清戦争で、同じ要塞をまだ防御貧困だったとはいえ、僅か損害200人で攻略していた事、また、日本軍の戦術教範の基となったドイツ陸軍が攻城だけは弱点で教範をもっていなかった事などが災いしました。ドイツは城塞が時代遅れであり、運動戦重視として戦術もそこに傾斜していたため、日本軍側も対処をよく考えないまま攻略戦に突入しました。
結局、当初からロシア軍旅順要塞の危険を強く説いていた各師団の日本軍工兵大隊の将校達は、本国から坑道戦理論の本やフランスのボーバンが著した「攻囲論」(十八世紀の本ですが、攻城理論の名著)を取り寄せ戦地で研究し、防御効果の高い塹壕を構築、或いは坑道作り、砲列の設定方法等を工夫し短期攻略に大きく貢献します。
現場の歩兵大隊の将校も独自に工夫し、突撃だけでなく、防御も考慮していたため、それでもロシア側の決定的な戦闘局面以外の反撃進出は一回も許さず、一次大戦のような行ったり来たりだけは防止しました。
7月に旅順要塞攻撃開始。要塞正面の攻撃は10月になってもまったく目処が立たず、これを断念して十一月から児玉総参謀長の指揮により203高地方面への攻撃に集中。酷寒の旅順で連日昼間のみでなく、深夜から払暁四時まで日本兵は戦友の亡骸を積み上げて障壁としつつ連日戦いを続け、午後に山頂制圧、さらに最後の予備隊とともに駆けつけたコンドラチェンコ少将が戦死。露軍側の士気崩壊して、戦闘が終わりました。
そして、203高地からの観測に沿って湾内艦船への砲撃を開始、露軍太平洋艦隊全滅。
旅順要塞戦で、日本側死傷者6万人(戦死1万5,000人、内203高地6,300人)、露軍死傷3万人(戦死1万人)。
これでいよいよ日本側の勝利に近づき、世界を驚嘆させていきます。
アジアでは翌年の奉天会戦勝利もあって、植民地支配にあえぐ人々に有色人種が白人種に自国製の武器で戦い勝っている、と独立への小さな灯をともしました。その後、シンガポール、ベトナム沖を45隻のバルチック艦隊が通過し、新聞で見聞きした彼らは「これで遂に東京も火の海となり、天皇も殺される」と暗澹としますが、追って五月、日本海軍がこれを壊滅させると、世界中の植民地知識人、民族主義者の心に「やれば勝てる」との本当の、もはや消える事のない灯がともっていきました。
酷寒の中で朝昼、そして連日深夜三時、四時になっても戦友の遺体を防壁に戦い、一命を捧げられて、日本の夜明けとアジアの希望を灯した当時の日本将兵の方々を思い、その旅順要塞203高地・戦勝百年を心から祝いたい、誇りたいと思います。
来年は、日露戦争戦勝百年でもあります。
私は日露戦を俯瞰していると、この203高地戦こそ、分水嶺だったように思うのですが。
また、その戦いは、朝鮮半島経由の鉄道輸送にも大きく依存しましたが、大倉財閥の建設工事が難渋する中、一進会会員朝鮮人十数万人が無償で突貫工事を手伝ったお陰でもあります。彼らは当時の日本人と理想を同じくしました。これも忘れてはならない、と思います。
日露戦争の前半戦の中でも、ことに忘れてはならない旅順要塞203高地攻防戦。
丁度、今から百年前の1904年11月末から12月5日にかけて戦われました。
日本軍第三軍の旅順要塞攻略の手拙さを今から批判するのは容易ですが、英独仏露の四カ国がその僅か十年後、さらに拙劣な作戦、砲列、機関銃列への単純突撃の繰り返しで百万単位の損害を四年以上続けた事を考えると、乃木将軍と参謀陣はさておいても、第三軍の将兵達が、知恵者に見えます。
旅順要塞戦における彼我の戦力差は、延べ動員で日本15万人対ロシア5万人、砲数だけ勝るものの、要塞に歯が立たず。
その前の日清戦争で、同じ要塞をまだ防御貧困だったとはいえ、僅か損害200人で攻略していた事、また、日本軍の戦術教範の基となったドイツ陸軍が攻城だけは弱点で教範をもっていなかった事などが災いしました。ドイツは城塞が時代遅れであり、運動戦重視として戦術もそこに傾斜していたため、日本軍側も対処をよく考えないまま攻略戦に突入しました。
結局、当初からロシア軍旅順要塞の危険を強く説いていた各師団の日本軍工兵大隊の将校達は、本国から坑道戦理論の本やフランスのボーバンが著した「攻囲論」(十八世紀の本ですが、攻城理論の名著)を取り寄せ戦地で研究し、防御効果の高い塹壕を構築、或いは坑道作り、砲列の設定方法等を工夫し短期攻略に大きく貢献します。
現場の歩兵大隊の将校も独自に工夫し、突撃だけでなく、防御も考慮していたため、それでもロシア側の決定的な戦闘局面以外の反撃進出は一回も許さず、一次大戦のような行ったり来たりだけは防止しました。
7月に旅順要塞攻撃開始。要塞正面の攻撃は10月になってもまったく目処が立たず、これを断念して十一月から児玉総参謀長の指揮により203高地方面への攻撃に集中。酷寒の旅順で連日昼間のみでなく、深夜から払暁四時まで日本兵は戦友の亡骸を積み上げて障壁としつつ連日戦いを続け、午後に山頂制圧、さらに最後の予備隊とともに駆けつけたコンドラチェンコ少将が戦死。露軍側の士気崩壊して、戦闘が終わりました。
そして、203高地からの観測に沿って湾内艦船への砲撃を開始、露軍太平洋艦隊全滅。
旅順要塞戦で、日本側死傷者6万人(戦死1万5,000人、内203高地6,300人)、露軍死傷3万人(戦死1万人)。
これでいよいよ日本側の勝利に近づき、世界を驚嘆させていきます。
アジアでは翌年の奉天会戦勝利もあって、植民地支配にあえぐ人々に有色人種が白人種に自国製の武器で戦い勝っている、と独立への小さな灯をともしました。その後、シンガポール、ベトナム沖を45隻のバルチック艦隊が通過し、新聞で見聞きした彼らは「これで遂に東京も火の海となり、天皇も殺される」と暗澹としますが、追って五月、日本海軍がこれを壊滅させると、世界中の植民地知識人、民族主義者の心に「やれば勝てる」との本当の、もはや消える事のない灯がともっていきました。
酷寒の中で朝昼、そして連日深夜三時、四時になっても戦友の遺体を防壁に戦い、一命を捧げられて、日本の夜明けとアジアの希望を灯した当時の日本将兵の方々を思い、その旅順要塞203高地・戦勝百年を心から祝いたい、誇りたいと思います。
来年は、日露戦争戦勝百年でもあります。
私は日露戦を俯瞰していると、この203高地戦こそ、分水嶺だったように思うのですが。
また、その戦いは、朝鮮半島経由の鉄道輸送にも大きく依存しましたが、大倉財閥の建設工事が難渋する中、一進会会員朝鮮人十数万人が無償で突貫工事を手伝ったお陰でもあります。彼らは当時の日本人と理想を同じくしました。これも忘れてはならない、と思います。
これは メッセージ 1 (topics_editor さん)への返信です.
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