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参考

投稿者: nagasima_sigezo 投稿日時: 2003/09/06 13:30 投稿番号: [494 / 85019]
石窟庵   釈迦如来像     飯山達雄
  1971年の秋、韓国へ高麗、李朝の当時の古窯を調べに言った。そのおり、
足を延ばして新羅の遺跡の仏国寺を訪ね、背後にある吐含山の石窟庵へといった。
  一人の若い僧侶が石窟建造の由来を説明したあと、
『中央の釈迦如来像のミケンには、現在ガラス玉が入っているが、元は水晶の玉が
入っていた。だが水晶の玉は、終戦直後、日本人が盗んでいった……』と、付け加えた。
「チョ   ムスン   ソリニャ(そりゃ何の歌だい=何たることをぬかすか=といった意)」
私は、そこが外国であることも忘れ、下等な俗語で僧侶に食ってかかった。
  いま、日韓両国が善隣友好に努力しつつある時、それに水をさす歪曲された言葉
には、我慢ならなかったからである。
  新羅の旧都慶集には1913(大正4)年から移り住み、石窟庵には大坂金太郎
校長(のちの慶州博物館長)に伴われて幾度か行ったが、当時から如来像のミケン
に玉は入っていなかった。庵寺の僧侶は、戦後東京中央大学の史学科を出たという
人で、受講中に聞いた話だと言ったが、私の抗議にはその場で了解してくれた。
  この種の歪曲された「日本人の悪行?」の話は、戦後雨後の筍のように流布され
出した。事実を究明することなく、物の本にもかなり書かれている。最近読んだ
新刊で、高麗、李朝の陶磁の写真集に、壬辰倭乱の時、日本勢が撤退に際し
陶工のほとんどを拉致して行ったとしてある。
  私は1928年から朝鮮総督府鉄道局に席をおき、朝鮮事情紹介の執筆編集に
たずさわった。「高麗、李朝の窯跡歩き」と題する案内記を出すこととなり、その道
の権威であった浅川伯教さんをわずらわして古窯探査をやった。そのおり伯教
さんは、李朝の窯などが亡びたのは、陶工の国外流出によるものだと説明された。
壬辰丁酉の豊臣勢の朝鮮侵攻は不幸な出来事だったが、彼の地の道案内には
現地の人たちを起用した。1595(文禄5)年、島津義弘が巨済島引き揚げに際し、
部隊に協力した数名の朝鮮人が、彼らからの申し出により、薩摩に来て帰化した。
その中に金海と呼ぶ陶工がいて茶碗を焼き、献上した。義弘は大いに喜び彼を
士班に取り立て、名字帯刀を許して禄十五石を与えたという『古文書・薩摩陶器起源』。
萩に来た李敬一門、上野に窯を開いた尊階(釜山鎮城主の次子)、有田に来た
李参平など、
みな金海同様の優遇を受けている。その噂を伝え聞いた朝鮮の陶工が、
競うように日本へ流出したため、李朝の窯場が空になったと考えるのが自然だ
ろう。日本軍に協力したものには、当然極刑が待っていただろうし、また陶工の
おかれていた階級が「賤民」と呼ばれる最下層だったことも流出の原因にちが
いない。
  1910年日韓併合後、朝鮮に移り住んだ日本人一人一人が高麗王朝以来疲弊し
た文化を復帰し新展することを考え、実践してきたはずである。−もちろん朝鮮の人
たちとともに−。
  現在でも韓国の多くの友人たちは、私が訪韓の度に日本人の書いた本を示し、
いつになったらこんな意味ない著書が終息するのだろう……と。
『決定版   昭和史   別巻Ⅰ   日本植民地史   満州・朝鮮・台湾』毎日新聞社1985   p159
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