Re: 古代日本に関する件 別トピより転載
投稿者: elgfaret 投稿日時: 2007/06/23 08:07 投稿番号: [44664 / 85019]
ハイ勉強しましょう
九州『倭国』は 『白村江の戦い』(西暦663年) に敗れる迄、九州(筑紫島)を本拠に・出雲・加賀・吉備・葛城(秦)・尾張・毛野(常陸)・任那等を含む連邦国家で、日本列島及び半島最南部を代表する政権だった。
政権交代の時期は、そんなに古くない!。『倭国』が白村江の敗戦の、およそ10年后 『壬申の乱』(西暦672年) がその時期である。
この時期に九州『倭国』は滅亡し、替わって登場したのが『唐』支持のもと成立した、奈良の中央集権国家『日本国』王朝である。
なお、この王朝は弱体(新羅・唐のかいらい政権?)で、更に100年後、京都の『桓武王朝』へと引き継がれることとなる。現王朝・天皇家のはじまりである。
今の日本人には『倭国』と『日本国』とが、同じものとして受け止められているが、全くの別物と云えましょう。
米田良三著 『法隆寺は移築された』 は、 すばらしくも゛超″画期的・革命的!な解明だ。 法隆寺は、゛『移築』″されていた。
元々は、九州王朝『倭国』の都だった太宰府の 『観世音寺』 に建っていたもの。
以前私は、古田武彦氏の著書で九州王朝『倭国』の存在が確かである、と思いつつも、それらを証明する手がかり・物証なるものが得られず、いま一つすっきりしてませんでした。
米田良三氏の本著書に出会い「法隆寺が九州からの移築である」と知ったときは飛び上がるほどびっくりしました。
「中略」
あなたは信じられないとお思いでしょうが、彼は平安時代を代表する「『源氏物語』はもともと九州『倭国』における作品で、平安時代に紫式部により今風に手を加えられ世に出たものといえる。『源氏物語』の舞台の本来の中心は京都ではなく、九州王朝の嘗ての都・太宰府都城であり、時空的には観世音寺創建の西暦607年以降で、倭国が滅亡する672年までの間と限定できる。」とものべています。
したがって従来よりささやかれているように、『飛鳥時代』での出来事とされる 『大化の改新』 ・法隆寺を舞台にした 『聖徳太子』 等々の話は、作り話と言うことになります。
隋・及び初唐期の中国政権と交渉したのは、九州太宰府の『倭国』政権だったことになります。 『旧唐書』 で言う『倭国』である。
『同書には土地には、女が多く男が少ない。たくさん文字があり、習俗は仏法を敬う。』とあります。このことは何を意味するか、(もう少し細かく書いておいてほしかったものだが…、)。
女が多いってことは、男は半島での戦争(半島での最後の故地を守ろうと)に狩り出され戦死者多く、内地では女・子供ばかりだと言っているのでしょう。
すこぶる文字多しとは、カタカナ・ひらがな・サンカ文字・アビル文字・漢字などが既にあったということでしょうし。
またその上習俗は、仏法を敬うとある。このことは、西暦650年頃の九州は、寺・寺院が町にあふれ市民のそれぞれが仏を敬っていたこととなりましょう。
当時の九州のイメージがわかりましょうか…?。戦争国家・それとも源氏物語の世界…?。
いっぽう同書には、 『日本国』 は倭国の別種なり、…或いは言う、日本はもと小国、倭国の地を併せたりともある。即ち『秦国』から脱皮した奈良王朝の初見である。
米田良三氏は、その著書で「今に残る、法隆寺・東大寺・薬師寺・長谷寺・法輪寺・法起寺・興福寺・東福寺はいうにおよばず、三十三間堂・桂離宮等々、これらあまたの建物が、九州倭国より移築されたものである。」と述べておられます。確かに北部九州の、特に大宰府から宇佐にかけて『大分廃寺』『天台廃寺』『椿市廃寺』『垂水廃寺』『虚空蔵寺跡』『法鏡寺廃寺跡』など『…廃寺跡』が数珠のごとく連なって残されてます、ごっそり゛移築″されたのでしょう。
このことが、何を意味するか?。今の今まで奈良や京都の文化の証しと信じられていた重要文化財のほとんどが、九州王朝『倭国』からの文化であり、文物であったということです。
すなわち九州の北部一帯には、交易によると思われる非常に豊かで、華美で、贅を尽くした夢のような王朝『倭国』があったことになります。
http://www.geocities.jp/waikoku/kyuusyuulh.html
九州『倭国』は 『白村江の戦い』(西暦663年) に敗れる迄、九州(筑紫島)を本拠に・出雲・加賀・吉備・葛城(秦)・尾張・毛野(常陸)・任那等を含む連邦国家で、日本列島及び半島最南部を代表する政権だった。
政権交代の時期は、そんなに古くない!。『倭国』が白村江の敗戦の、およそ10年后 『壬申の乱』(西暦672年) がその時期である。
この時期に九州『倭国』は滅亡し、替わって登場したのが『唐』支持のもと成立した、奈良の中央集権国家『日本国』王朝である。
なお、この王朝は弱体(新羅・唐のかいらい政権?)で、更に100年後、京都の『桓武王朝』へと引き継がれることとなる。現王朝・天皇家のはじまりである。
今の日本人には『倭国』と『日本国』とが、同じものとして受け止められているが、全くの別物と云えましょう。
米田良三著 『法隆寺は移築された』 は、 すばらしくも゛超″画期的・革命的!な解明だ。 法隆寺は、゛『移築』″されていた。
元々は、九州王朝『倭国』の都だった太宰府の 『観世音寺』 に建っていたもの。
以前私は、古田武彦氏の著書で九州王朝『倭国』の存在が確かである、と思いつつも、それらを証明する手がかり・物証なるものが得られず、いま一つすっきりしてませんでした。
米田良三氏の本著書に出会い「法隆寺が九州からの移築である」と知ったときは飛び上がるほどびっくりしました。
「中略」
あなたは信じられないとお思いでしょうが、彼は平安時代を代表する「『源氏物語』はもともと九州『倭国』における作品で、平安時代に紫式部により今風に手を加えられ世に出たものといえる。『源氏物語』の舞台の本来の中心は京都ではなく、九州王朝の嘗ての都・太宰府都城であり、時空的には観世音寺創建の西暦607年以降で、倭国が滅亡する672年までの間と限定できる。」とものべています。
したがって従来よりささやかれているように、『飛鳥時代』での出来事とされる 『大化の改新』 ・法隆寺を舞台にした 『聖徳太子』 等々の話は、作り話と言うことになります。
隋・及び初唐期の中国政権と交渉したのは、九州太宰府の『倭国』政権だったことになります。 『旧唐書』 で言う『倭国』である。
『同書には土地には、女が多く男が少ない。たくさん文字があり、習俗は仏法を敬う。』とあります。このことは何を意味するか、(もう少し細かく書いておいてほしかったものだが…、)。
女が多いってことは、男は半島での戦争(半島での最後の故地を守ろうと)に狩り出され戦死者多く、内地では女・子供ばかりだと言っているのでしょう。
すこぶる文字多しとは、カタカナ・ひらがな・サンカ文字・アビル文字・漢字などが既にあったということでしょうし。
またその上習俗は、仏法を敬うとある。このことは、西暦650年頃の九州は、寺・寺院が町にあふれ市民のそれぞれが仏を敬っていたこととなりましょう。
当時の九州のイメージがわかりましょうか…?。戦争国家・それとも源氏物語の世界…?。
いっぽう同書には、 『日本国』 は倭国の別種なり、…或いは言う、日本はもと小国、倭国の地を併せたりともある。即ち『秦国』から脱皮した奈良王朝の初見である。
米田良三氏は、その著書で「今に残る、法隆寺・東大寺・薬師寺・長谷寺・法輪寺・法起寺・興福寺・東福寺はいうにおよばず、三十三間堂・桂離宮等々、これらあまたの建物が、九州倭国より移築されたものである。」と述べておられます。確かに北部九州の、特に大宰府から宇佐にかけて『大分廃寺』『天台廃寺』『椿市廃寺』『垂水廃寺』『虚空蔵寺跡』『法鏡寺廃寺跡』など『…廃寺跡』が数珠のごとく連なって残されてます、ごっそり゛移築″されたのでしょう。
このことが、何を意味するか?。今の今まで奈良や京都の文化の証しと信じられていた重要文化財のほとんどが、九州王朝『倭国』からの文化であり、文物であったということです。
すなわち九州の北部一帯には、交易によると思われる非常に豊かで、華美で、贅を尽くした夢のような王朝『倭国』があったことになります。
http://www.geocities.jp/waikoku/kyuusyuulh.html
これは メッセージ 44624 (gansandrosas さん)への返信です.
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