高木正雄氏の事
投稿者: utsukusiikuninihonn 投稿日時: 2004/11/17 22:18 投稿番号: [4403 / 85019]
大平正芳、福田康夫、佐藤栄作氏などは、ことに朴正煕大統領に随分気を使って援助に努めましたね。
それら日本側の周辺の人々も、朴大統領を好んだのは文字通り質実剛健で、質素に徹していた点もあったようです。
日本の大手時計会社は朴大統領の時代に、奨励策に応じて早く進出した日本企業の一社でしたが、これは高射砲などの多種の時限信管技術が韓国防衛に必須だったからでもありました。
それでもその工場が来た時は朴大統領は大変喜んで、ずっと腕時計もその会社の中級品を愛用し続けました。
それと気付いた回りの人間が古くなったその時計を替えたらと、欧米の高級時計を贈っても決して替えなかったそうです。
また、服装も靴なども高級品を履かず、多少くたびれていても平然と履いていたそうです。
空を見ても、どれくらい雨が降ったかどうか、収穫時期には晴れたかどうかは絶えず気にして、重工業立ち上げと同じように灌漑設備整備にも気を遣いました。
李承晩や金日成が戦後すぐに復活させてしまった春窮と餓死だけはくりかえしたくなかったようです。
さらに、大統領になった時、陸軍士官学校時代の同期生達が、集まり祝いながらも反日・反朴勢力に利用されないよう、ご本人には会うことも祝うことも遠慮しているのを人づてに聞いて、その心使いに思わず涙したとの話も聞いたことがあります。
貧農の家で、進学を諦めていたところ、日本人教師が親を説得して進学させ、師範学校を卒業、小学校教師となり、さらにそこの教練担当の日本人に進められ満州国の士官学校に進み、現地配属、そこでも日本人将校達に認められ連隊長の推薦を受けて陸士に進学、優秀な成績で卒業。
ご家族にも、周りの者にも「日本は公平な国だ」と漏らしていたのは頷けますね。日本がなければ貧農の子として終わっていたでしょう。
彼ら、陸士出の朝鮮将校達は、朝鮮動乱までは冷遇され、李承晩一派によって、追放、極刑、拷問、懲役刑にされるなど惨憺たる運命を辿りますが、動乱時にはやはり役に立つのは彼らであることが証明され、参謀総長以下、続々と陸士出が抜擢され反撃の主役となりました。彼らの合い言葉は陸士で習ったモットー「苦しくなってからが、戦いだ」でした。精神力とはそういうことをさすのでしょう。釜山の戦いも彼らはその言葉で督戦して乗り切ったのだと思います。
李承晩、金九一派、それに連なる軍人達のように、普段は大言壮語、しかし火急となると真っ先に逃げ出す連中とは、寡黙に徹した陸士出達はまったく対照的でした。
暗殺時、撃たれた時も周りの人間に「自分のことは良いから逃げろ」と言ったと伝えられています。
朴大統領の質素、剛健、寡黙さも、どうしても日本人の琴線に触れるところがありますね。現在の韓国を見ていると、草場の陰でどう思っていることでしょうか。
私は、彼が一時、韓国の軍学校の総監も務めたことも合わせ、なんだか、終生、朝鮮にとり、厳しくもあれば暖かくもある実直な小学校の先生だったような気もします。彼にとっても故国の学童達とともにあった時代が実は一番懐かしい時代ではないのか?と思うのですが。
http://www.516.co.kr/photo/photoview.asp?idx=46&ptype=B&pgrapher=
それら日本側の周辺の人々も、朴大統領を好んだのは文字通り質実剛健で、質素に徹していた点もあったようです。
日本の大手時計会社は朴大統領の時代に、奨励策に応じて早く進出した日本企業の一社でしたが、これは高射砲などの多種の時限信管技術が韓国防衛に必須だったからでもありました。
それでもその工場が来た時は朴大統領は大変喜んで、ずっと腕時計もその会社の中級品を愛用し続けました。
それと気付いた回りの人間が古くなったその時計を替えたらと、欧米の高級時計を贈っても決して替えなかったそうです。
また、服装も靴なども高級品を履かず、多少くたびれていても平然と履いていたそうです。
空を見ても、どれくらい雨が降ったかどうか、収穫時期には晴れたかどうかは絶えず気にして、重工業立ち上げと同じように灌漑設備整備にも気を遣いました。
李承晩や金日成が戦後すぐに復活させてしまった春窮と餓死だけはくりかえしたくなかったようです。
さらに、大統領になった時、陸軍士官学校時代の同期生達が、集まり祝いながらも反日・反朴勢力に利用されないよう、ご本人には会うことも祝うことも遠慮しているのを人づてに聞いて、その心使いに思わず涙したとの話も聞いたことがあります。
貧農の家で、進学を諦めていたところ、日本人教師が親を説得して進学させ、師範学校を卒業、小学校教師となり、さらにそこの教練担当の日本人に進められ満州国の士官学校に進み、現地配属、そこでも日本人将校達に認められ連隊長の推薦を受けて陸士に進学、優秀な成績で卒業。
ご家族にも、周りの者にも「日本は公平な国だ」と漏らしていたのは頷けますね。日本がなければ貧農の子として終わっていたでしょう。
彼ら、陸士出の朝鮮将校達は、朝鮮動乱までは冷遇され、李承晩一派によって、追放、極刑、拷問、懲役刑にされるなど惨憺たる運命を辿りますが、動乱時にはやはり役に立つのは彼らであることが証明され、参謀総長以下、続々と陸士出が抜擢され反撃の主役となりました。彼らの合い言葉は陸士で習ったモットー「苦しくなってからが、戦いだ」でした。精神力とはそういうことをさすのでしょう。釜山の戦いも彼らはその言葉で督戦して乗り切ったのだと思います。
李承晩、金九一派、それに連なる軍人達のように、普段は大言壮語、しかし火急となると真っ先に逃げ出す連中とは、寡黙に徹した陸士出達はまったく対照的でした。
暗殺時、撃たれた時も周りの人間に「自分のことは良いから逃げろ」と言ったと伝えられています。
朴大統領の質素、剛健、寡黙さも、どうしても日本人の琴線に触れるところがありますね。現在の韓国を見ていると、草場の陰でどう思っていることでしょうか。
私は、彼が一時、韓国の軍学校の総監も務めたことも合わせ、なんだか、終生、朝鮮にとり、厳しくもあれば暖かくもある実直な小学校の先生だったような気もします。彼にとっても故国の学童達とともにあった時代が実は一番懐かしい時代ではないのか?と思うのですが。
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これは メッセージ 1 (topics_editor さん)への返信です.
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