竹島の歴史
投稿者: xsekitori 投稿日時: 2004/11/05 13:21 投稿番号: [3922 / 85019]
鬱陵島と独島が新羅の領土に編入されたのは新羅智証王13年(512年)の時である。
三国史記によると、智証王13年6月、新羅の異斯夫が鬱陵島を征伐して新羅に帰属させた後、毎年土産物をもらったという記録がある。 異斯夫は奈勿王の4代孫で姓は金氏である。彼は智証王6年(505年)悉直州(三陟)の君主となったが、智証王13年には阿スル羅州(江陵)の君主となって于山国を征伐しようとした。于山国の人々は荒っぽくて力で屈服させるのは難しいと思った彼は、智恵を考え出した。彼は木でカカシの獅子をだくさん作って船に乗せて于山国の海岸についた後、「もしきみたちが降伏しないと、すぐこの荒っぽい獅子を出してすべてを踏み殺すぞ」と脅かした。すると于山国の人々は異斯夫が思ったとおり素直に降参して毎年朝貢を捧げるようになった。
《高麗史》によれば、1156年(毅王11年)東海の真中にウルン島があるが、この土地が肥沃でチュ・ヒョンを設置した時もあり、《世宗実録》〈地理誌〉には「独島(于山島)は鬱陵島とともに蔚珍県の東方海の真中にあり、鬱陵島からさほど離れておらず、風が穏やかで清明な日は鬱陵島から見られる位置にあり、ウサン(于山)と呼ばれた」と記録されている。
1439年(世宗21年)対馬の守護・宗貞茂が平道全という人を送って土産物を捧げ、部落の人々を連れて鬱陵島に移って住むように要請したが、『対馬人が国内においては平常時のようでも、もし国境を越えた場合には、必ず対馬人の被害があるだろう』といいながら断った。成宗の時は独島を三峯島に、粛宗の時は子山島と呼んだ。1693年(粛宗19年)日本の漁夫が独島と鬱陵島近海まで出現して漁ろう活動をするので、東來の漁夫安龍福は日本に渡って独島が朝鮮の固有領土であるとことを再確認し、日本の漁夫たちの鬱陵島、独島近海での漁ろう活動を禁止するようにした。定祖の時は独島を可支島と呼んだ。
鬱陵島の住民たちは、オットセイを「可支魚」と呼んだため、オットセイが頻繁に現れる独島を「可支島」と呼んだ。1794年(定祖19年)韓昌国の鬱陵島遊民報告書には「鬱陵島から可支島に向けて出発したが、島の近くに至ると4、5匹の可支魚が驚いて飛び上がる姿が水牛のようであった。捕手が射って二匹を捕まえた」と記録されている。 1876年以後、日本の漁民らが独島と鬱陵島近海にまた出漁し始めると、1881年(高宗18年)厳重に抗議して日本政府の謝罪を受けた。1895年(高宗32年)には島長を島監に変え、島監に鬱陵島人の蠔季周を任命して判任官の代遇をした。朝鮮時代の独島は明確な地理的認識の下で、確実な地方行政組織の管轄に属していた。
1945年8月15日、光復(解放)と共に主権を取り戻した大韓民国は、1947年韓国山岳会が中心となって生物、地理等に関する学術調査を実施し、1952年1月18日李承晩大統領は「隣接海洋の主権に関する大統領宣言」を発表し、「平和線」の中に独島を含めた。
1953年4月20日洪淳七等33人が独島義勇守備隊を結成して独島に無断で上陸した日本人を追い払い、1956年まで独島を守備した後、鬱陵警察署にその任務を引継ぎした。1954年8月15日、初めて独島燈台を点灯して世界各国に燈台を設置した事実を通報した。また同年9月30日から10月22日まで、大韓民国海軍の水路国で独島を測量して原図を水路国で保存している。
1961年12月26日から翌年2月26日まで国立建設研究所で地形図の作成のために評判測量を 実施して縮尺1:3,000の地形図を制作した。
1978年韓国史学会で〈鬱陵島、独島学術調査研究〉を刊行し、1981年には韓国自然保存協会で〈鬱陵島及び独島総合学術調査報告書〉を発刊した。1980年5月建設部の国立地理院で航空写真の測量法により1:1,000及び1:5,000の大縮尺地形図を制作した。
三国史記によると、智証王13年6月、新羅の異斯夫が鬱陵島を征伐して新羅に帰属させた後、毎年土産物をもらったという記録がある。 異斯夫は奈勿王の4代孫で姓は金氏である。彼は智証王6年(505年)悉直州(三陟)の君主となったが、智証王13年には阿スル羅州(江陵)の君主となって于山国を征伐しようとした。于山国の人々は荒っぽくて力で屈服させるのは難しいと思った彼は、智恵を考え出した。彼は木でカカシの獅子をだくさん作って船に乗せて于山国の海岸についた後、「もしきみたちが降伏しないと、すぐこの荒っぽい獅子を出してすべてを踏み殺すぞ」と脅かした。すると于山国の人々は異斯夫が思ったとおり素直に降参して毎年朝貢を捧げるようになった。
《高麗史》によれば、1156年(毅王11年)東海の真中にウルン島があるが、この土地が肥沃でチュ・ヒョンを設置した時もあり、《世宗実録》〈地理誌〉には「独島(于山島)は鬱陵島とともに蔚珍県の東方海の真中にあり、鬱陵島からさほど離れておらず、風が穏やかで清明な日は鬱陵島から見られる位置にあり、ウサン(于山)と呼ばれた」と記録されている。
1439年(世宗21年)対馬の守護・宗貞茂が平道全という人を送って土産物を捧げ、部落の人々を連れて鬱陵島に移って住むように要請したが、『対馬人が国内においては平常時のようでも、もし国境を越えた場合には、必ず対馬人の被害があるだろう』といいながら断った。成宗の時は独島を三峯島に、粛宗の時は子山島と呼んだ。1693年(粛宗19年)日本の漁夫が独島と鬱陵島近海まで出現して漁ろう活動をするので、東來の漁夫安龍福は日本に渡って独島が朝鮮の固有領土であるとことを再確認し、日本の漁夫たちの鬱陵島、独島近海での漁ろう活動を禁止するようにした。定祖の時は独島を可支島と呼んだ。
鬱陵島の住民たちは、オットセイを「可支魚」と呼んだため、オットセイが頻繁に現れる独島を「可支島」と呼んだ。1794年(定祖19年)韓昌国の鬱陵島遊民報告書には「鬱陵島から可支島に向けて出発したが、島の近くに至ると4、5匹の可支魚が驚いて飛び上がる姿が水牛のようであった。捕手が射って二匹を捕まえた」と記録されている。 1876年以後、日本の漁民らが独島と鬱陵島近海にまた出漁し始めると、1881年(高宗18年)厳重に抗議して日本政府の謝罪を受けた。1895年(高宗32年)には島長を島監に変え、島監に鬱陵島人の蠔季周を任命して判任官の代遇をした。朝鮮時代の独島は明確な地理的認識の下で、確実な地方行政組織の管轄に属していた。
1945年8月15日、光復(解放)と共に主権を取り戻した大韓民国は、1947年韓国山岳会が中心となって生物、地理等に関する学術調査を実施し、1952年1月18日李承晩大統領は「隣接海洋の主権に関する大統領宣言」を発表し、「平和線」の中に独島を含めた。
1953年4月20日洪淳七等33人が独島義勇守備隊を結成して独島に無断で上陸した日本人を追い払い、1956年まで独島を守備した後、鬱陵警察署にその任務を引継ぎした。1954年8月15日、初めて独島燈台を点灯して世界各国に燈台を設置した事実を通報した。また同年9月30日から10月22日まで、大韓民国海軍の水路国で独島を測量して原図を水路国で保存している。
1961年12月26日から翌年2月26日まで国立建設研究所で地形図の作成のために評判測量を 実施して縮尺1:3,000の地形図を制作した。
1978年韓国史学会で〈鬱陵島、独島学術調査研究〉を刊行し、1981年には韓国自然保存協会で〈鬱陵島及び独島総合学術調査報告書〉を発刊した。1980年5月建設部の国立地理院で航空写真の測量法により1:1,000及び1:5,000の大縮尺地形図を制作した。
これは メッセージ 1 (topics_editor さん)への返信です.
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