Re: 神風のない国、韓国は、再び最貧国に
投稿者: p10l9 投稿日時: 2007/03/15 17:44 投稿番号: [36449 / 85019]
>今のウォン高は韓国企業には一種の「神風」だと我輩は観る<
神風と言い出したのは、そっち。
虚言癖、頭がかなり悪い、その上、記憶力欠落。
アホだな、本当に。
第二次大戦で神風云々は、当然、故事にちなんで言ってること。知らなかった?
いわゆる「神風」の故事は、侵略してきた元と高麗人に関して起こったことから来ている。
君以外は、誰でも知ってるよ。
まだ、神風と日本人に撃退されて、死んでいった沢山の高麗人が埋まってるよ。
>蒙古塚 今津、能古島、及び 志賀島 にある。
今津海岸の元寇防塁の南側 「野の花学園」の構内に小高い堆土があり上に「蒙古塚」と記した石碑がある。
畑の中に古墳とも見える背丈の倍程の堆土があり、灌木に覆われて道路からは見え難いが台上に「蒙古塚」の石碑が建っている。
戦前の調査で多数の人骨が発見され、元軍のものかは不明であるが、前者を千人塚、後者を万人塚とも言う。 <
>「高麗襲来」。私は「元寇」の事をこう書きました。それは、何故か? 実は、元の大汗(ハーン)フビライ(以下、「忽必烈」と略)に、壮大な「日本征服」計画を吹き込み、その気にさせた一人の高麗人がいたのです。彼の名はチョー・イ。朝鮮半島南部出身である彼は、蒙古の高麗侵攻の際に祖国を裏切り、蒙古の首都燕京(後に中都、更に大都と改称。現在の北京)に赴き、進士試験(科挙)に合格、遂にはあの忽必烈の知遇を得る迄にのし上がったのです。その彼が、忽必烈に吹き込んだ事、それが、「黄金の国ジパング」の征服計画だったのです。この「日本征服」計画に乗った忽必烈は、文永4(1267)年を皮切りに、以後14回(蒙古が8回、高麗が6回)にわたって、招諭使(使節)を日本へ派遣して来ました。招諭使 彼らの目的は、忽必烈の国書を鎌倉幕府へ渡す事、そして、その国書には、「蒙古の冊封を受ける」事、つまり高麗同様、蒙古の属国となる様にと言った内容が書かれていたのです。勿論、鎌倉幕府が拒絶したのは言う迄もありません。
蒙古は生粋(きっすい)の「陸軍国」であり、それ迄、渡海作戦の経験は無かったからです。つまり、「日本征服」作戦は蒙古にとっても、かつて経験した事の無い「未知の戦争」だったと言えるのです。
さて、話を元寇に戻しましょう。高麗人官吏の提案が発端となった「日本征服」作戦は忽必烈の命令によって、戦費全額を高麗が負担、軍船900余隻の建造をしたのです。更に、艦隊の発進基地(港)、兵士約6000人、水夫(軍艦の漕ぎ手)約6700人、兵糧(食糧)を提供しました(文永の役)。つまり、元の「征日本国軍」の主力は、事実上、高麗だったと言う事なのです。又、第二次日本侵攻(弘安の役)の際にも、軍船900隻、士1万人、水夫1万5千人、兵糧を提供し、高麗人、金方慶を将とする「東路軍」4万の兵を編成、元によって征服された南宋の残存艦隊によって編成された「江南軍」10万の兵と共に、再び日本へと軍事侵攻しました。これは裏を返せば、高麗人官吏が忽必烈に「日本征服」を吹き込まず、高麗が陰に日向に元軍を支援しなかったとしたら、ひょっとしたら、元寇は起こらなかったかも知れない訳です。そう言う意味では、「蒙古襲来」(元寇)とは、正に「高麗襲来」とでも呼べる事件だったとは言えないでしょうか。<
神風と言い出したのは、そっち。
虚言癖、頭がかなり悪い、その上、記憶力欠落。
アホだな、本当に。
第二次大戦で神風云々は、当然、故事にちなんで言ってること。知らなかった?
いわゆる「神風」の故事は、侵略してきた元と高麗人に関して起こったことから来ている。
君以外は、誰でも知ってるよ。
まだ、神風と日本人に撃退されて、死んでいった沢山の高麗人が埋まってるよ。
>蒙古塚 今津、能古島、及び 志賀島 にある。
今津海岸の元寇防塁の南側 「野の花学園」の構内に小高い堆土があり上に「蒙古塚」と記した石碑がある。
畑の中に古墳とも見える背丈の倍程の堆土があり、灌木に覆われて道路からは見え難いが台上に「蒙古塚」の石碑が建っている。
戦前の調査で多数の人骨が発見され、元軍のものかは不明であるが、前者を千人塚、後者を万人塚とも言う。 <
>「高麗襲来」。私は「元寇」の事をこう書きました。それは、何故か? 実は、元の大汗(ハーン)フビライ(以下、「忽必烈」と略)に、壮大な「日本征服」計画を吹き込み、その気にさせた一人の高麗人がいたのです。彼の名はチョー・イ。朝鮮半島南部出身である彼は、蒙古の高麗侵攻の際に祖国を裏切り、蒙古の首都燕京(後に中都、更に大都と改称。現在の北京)に赴き、進士試験(科挙)に合格、遂にはあの忽必烈の知遇を得る迄にのし上がったのです。その彼が、忽必烈に吹き込んだ事、それが、「黄金の国ジパング」の征服計画だったのです。この「日本征服」計画に乗った忽必烈は、文永4(1267)年を皮切りに、以後14回(蒙古が8回、高麗が6回)にわたって、招諭使(使節)を日本へ派遣して来ました。招諭使 彼らの目的は、忽必烈の国書を鎌倉幕府へ渡す事、そして、その国書には、「蒙古の冊封を受ける」事、つまり高麗同様、蒙古の属国となる様にと言った内容が書かれていたのです。勿論、鎌倉幕府が拒絶したのは言う迄もありません。
蒙古は生粋(きっすい)の「陸軍国」であり、それ迄、渡海作戦の経験は無かったからです。つまり、「日本征服」作戦は蒙古にとっても、かつて経験した事の無い「未知の戦争」だったと言えるのです。
さて、話を元寇に戻しましょう。高麗人官吏の提案が発端となった「日本征服」作戦は忽必烈の命令によって、戦費全額を高麗が負担、軍船900余隻の建造をしたのです。更に、艦隊の発進基地(港)、兵士約6000人、水夫(軍艦の漕ぎ手)約6700人、兵糧(食糧)を提供しました(文永の役)。つまり、元の「征日本国軍」の主力は、事実上、高麗だったと言う事なのです。又、第二次日本侵攻(弘安の役)の際にも、軍船900隻、士1万人、水夫1万5千人、兵糧を提供し、高麗人、金方慶を将とする「東路軍」4万の兵を編成、元によって征服された南宋の残存艦隊によって編成された「江南軍」10万の兵と共に、再び日本へと軍事侵攻しました。これは裏を返せば、高麗人官吏が忽必烈に「日本征服」を吹き込まず、高麗が陰に日向に元軍を支援しなかったとしたら、ひょっとしたら、元寇は起こらなかったかも知れない訳です。そう言う意味では、「蒙古襲来」(元寇)とは、正に「高麗襲来」とでも呼べる事件だったとは言えないでしょうか。<
これは メッセージ 36437 (elgfaret さん)への返信です.
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