1947年7月の「反日法」
投稿者: utsukusiikuninihonn 投稿日時: 2004/10/20 23:50 投稿番号: [3551 / 85019]
1945年8月、日本の降伏が伝えられると、予想通り、朝鮮の群衆が各地で集まりはじめ、争乱騒擾が相次いだ。
中堅都市、亀尾でも「親日派をつるせ、殺せ」と群衆で騒ぐ者がいたが、一人の男性が高いところに立ち、「恥ずかしいことはやめよう、建国準備委員会もできて、これから秩序を自分たちで守らないでどうするのか」と演説し、結局流血を見なかった。演説したのは、後の韓国大統領、朴正煕の兄、朴相煕だった。
多くの朝鮮人が独立は確実と思う中、朝鮮に進駐した米軍は、集まった群衆に発砲し、数十名を殺した。統治の始まりだった。ソ連軍も百年前のロシア提案線のまま、38度線まで南下した。追って、9月2日、米ソ双方により、38度線をもって、両国で統治管理すると発表。
ソ連は金日成を運び、米国は、単独選挙案を提示した。その間、結局、国際的には誰からも認められなかった朝鮮人の上海臨時政府(戦時中もまったく戦わず)は、李承晩、金九らすべてが個人として帰国。全員が米国に認めるように朝鮮で運動開始。
統治宣言、軍政宣言などが相次ぐ中でも再び誰も立ち上がらず、米ソの分割統治は既成事実となる。朝鮮国内は幾つもの政治グループに分かれ、論争、騒擾、陰謀、反米、反ソ、反共などが入り乱れた。
翌年には早くも全土ゼネスト賛成派、反対派、李承晩派、反李承晩派などが混乱に火をつけ、各地で衝突が発生。おおよそ千人近く死傷者を出す。
騒擾は各地に広がり、警察官の家族、政治家、その家族もあちこちで襲われ、引き回されるなどの悲劇を生んだ。
李承晩派も反撃に出て、武装集団を結成、左翼、保守、穏健派の殺害、家族誘拐、婦女暴行、略奪を全土で展開。死者5,000人以上(今も正確には不明)、負傷者2万人以上。多くの有意の政治家、運動家、篤志家が殺され、朴相煕もこの騒擾の中で右派警官に殺害された。
この時、左派、穏健派は軒並み北朝鮮に逃れ、復讐を誓う。
国内は荒廃し、農業、工業とも日本統治時代の20%に低下、春には食べ物がない、李朝時代の春窮も復活した。
そんな国土荒廃、同族同士の殺し合いが続く中、朝鮮国会ではまったく無意味な議論が続いていた。
47年7月、同民族同士の殺戮が続く中、米軍のための翼賛議会、立法院が「反日特別条例」を可決した。
対日協力者は死刑ないしは五年以上の懲役とするというものだが、軍政の責任者だったホッジ将軍は「あまりにも馬鹿げている。国民全員を死刑にするのか」とこの法案を拒否した。
この頃から米軍は朝鮮からの撤退、事実上の朝鮮放棄へと方向を転換した。
現在の韓国と何と似ていることか。だが、その馬鹿げた法案をとめる者は今は誰もいなかった。そこだけが違う。
こういった騒擾を眺め、政治家をめざしていた兄が殺された男がいた。その男は、李承晩、金九など上海から帰った、まったく独立運動も、抗日運動も戦いもしなかった連中が暴れ、反日を叫ぶのを見ていた。
それが軍人の朴正煕だった。満州軍官学校卒業、その後満州警備隊に所属し、日本で士官学校を出た男は、戦前、戦中とも朝鮮人は、誰も抗日戦争、ゲリラ戦などしていないことを百も承知だった。
朝鮮動乱の後、大統領となったが、国内の反日気運は放っておいたが、李承晩の時のような反日法の実行、反日行為は決して認めなかった。意味をなさないことを知っていたからだ。
今の韓国には、朴正煕のような政治家、軍人はいるのだろうか?
中堅都市、亀尾でも「親日派をつるせ、殺せ」と群衆で騒ぐ者がいたが、一人の男性が高いところに立ち、「恥ずかしいことはやめよう、建国準備委員会もできて、これから秩序を自分たちで守らないでどうするのか」と演説し、結局流血を見なかった。演説したのは、後の韓国大統領、朴正煕の兄、朴相煕だった。
多くの朝鮮人が独立は確実と思う中、朝鮮に進駐した米軍は、集まった群衆に発砲し、数十名を殺した。統治の始まりだった。ソ連軍も百年前のロシア提案線のまま、38度線まで南下した。追って、9月2日、米ソ双方により、38度線をもって、両国で統治管理すると発表。
ソ連は金日成を運び、米国は、単独選挙案を提示した。その間、結局、国際的には誰からも認められなかった朝鮮人の上海臨時政府(戦時中もまったく戦わず)は、李承晩、金九らすべてが個人として帰国。全員が米国に認めるように朝鮮で運動開始。
統治宣言、軍政宣言などが相次ぐ中でも再び誰も立ち上がらず、米ソの分割統治は既成事実となる。朝鮮国内は幾つもの政治グループに分かれ、論争、騒擾、陰謀、反米、反ソ、反共などが入り乱れた。
翌年には早くも全土ゼネスト賛成派、反対派、李承晩派、反李承晩派などが混乱に火をつけ、各地で衝突が発生。おおよそ千人近く死傷者を出す。
騒擾は各地に広がり、警察官の家族、政治家、その家族もあちこちで襲われ、引き回されるなどの悲劇を生んだ。
李承晩派も反撃に出て、武装集団を結成、左翼、保守、穏健派の殺害、家族誘拐、婦女暴行、略奪を全土で展開。死者5,000人以上(今も正確には不明)、負傷者2万人以上。多くの有意の政治家、運動家、篤志家が殺され、朴相煕もこの騒擾の中で右派警官に殺害された。
この時、左派、穏健派は軒並み北朝鮮に逃れ、復讐を誓う。
国内は荒廃し、農業、工業とも日本統治時代の20%に低下、春には食べ物がない、李朝時代の春窮も復活した。
そんな国土荒廃、同族同士の殺し合いが続く中、朝鮮国会ではまったく無意味な議論が続いていた。
47年7月、同民族同士の殺戮が続く中、米軍のための翼賛議会、立法院が「反日特別条例」を可決した。
対日協力者は死刑ないしは五年以上の懲役とするというものだが、軍政の責任者だったホッジ将軍は「あまりにも馬鹿げている。国民全員を死刑にするのか」とこの法案を拒否した。
この頃から米軍は朝鮮からの撤退、事実上の朝鮮放棄へと方向を転換した。
現在の韓国と何と似ていることか。だが、その馬鹿げた法案をとめる者は今は誰もいなかった。そこだけが違う。
こういった騒擾を眺め、政治家をめざしていた兄が殺された男がいた。その男は、李承晩、金九など上海から帰った、まったく独立運動も、抗日運動も戦いもしなかった連中が暴れ、反日を叫ぶのを見ていた。
それが軍人の朴正煕だった。満州軍官学校卒業、その後満州警備隊に所属し、日本で士官学校を出た男は、戦前、戦中とも朝鮮人は、誰も抗日戦争、ゲリラ戦などしていないことを百も承知だった。
朝鮮動乱の後、大統領となったが、国内の反日気運は放っておいたが、李承晩の時のような反日法の実行、反日行為は決して認めなかった。意味をなさないことを知っていたからだ。
今の韓国には、朴正煕のような政治家、軍人はいるのだろうか?
これは メッセージ 1 (topics_editor さん)への返信です.
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