韓国人が日本の少女暴行」米の学校教材⑫
投稿者: hyugeru29 投稿日時: 2007/01/20 09:35 投稿番号: [32752 / 85019]
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自宅を捨てたどり着いた日本人の収容所が、ソ連兵に襲われた体験を持つ人もいる。
「チャラ、チャラというサーベルの鎖の音と、軍靴の硬い靴音は今でも忘れられない」と振り返るのは、山本千恵子さん(69)(福岡県太宰府市)。
山本さんは家族6人で、朝鮮半島北部にある白頭山から東に約150キロの羅南で暮らしていた。ソ連侵攻後の45年8月13日、6人家族のうち、召集された父親を除く一家5人は山中に避難。ひたすら南側に向かって歩き続け、2か月後、約300キロ離れた興南の日本人収容所にたどり着いた。
しかし、弟がチフスで命を落とす。母が出産した女児はすぐに死亡。母親も3日後に息を引き取った。収容所での肉親は、当時9歳だった山本さんと姉、妹だけとなった。
「ソ連が来る」
ささやくような声が、収容所の棟から棟へと素早く伝えられる。1畳に2、3人が寝る狭い部屋だったが、みんなで畳を持ち上げ、若い女性を床下に押し込んで手早く元に戻した。
「マダム、ダワイ!(女を出せ)」
わめき声が近づき、サーベルの鎖と軍靴の音がドアの前で止まった。ドアを開けたソ連兵は、息を潜める一人ひとりの顔をのぞき込み、時には頭をつかんで顔を正面に向けさせ、女性でないかどうか確かめることもあった。
1度だけ、収容所の外で女性の悲鳴を聞いた。悲鳴は次第に遠ざかり、やがて聞こえなくなった。
「男性に見せかけて暴行を逃れるために、女性は髪を短く切って男物の服を着たり、顔に墨を塗ったりした。子供心にも『ソ連兵が来た時は黙っていないといけない』と思っていた」
収容所であった出来事を思い起こす時、山本さんの顔は今でもこわばる。
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帰国への最後の難関は、引き揚げ船だった。
京城(現韓国ソウル市)で生まれ育った森下昭子さん(79)(福岡市城南区)は45年10月、家族や親せきと満員の列車に乗り、釜山近くの街・鎮海にたどり着いた。1500トンの船には引き揚げ者が次々に押し込まれ、森下さんは、明かりもない真っ暗な甲板にひざを抱えて座り込んだ。聞こえてくるのは子供の泣き声と病人のうめき声、そして船が波を切る音だけ。船全体が暗い海に吸い込まれていくようで不気味だった。
「博多に着いたぞ!」
翌日、大声が聞こえた。船の先には、空襲で焼けただれた博多の街が広がっていた。下船後、人影もなく、黒っぽいがれきだけが広がる街を、博多駅まで30分ほどかけて歩いた。京城で育った森下さんにとって、日本は初めて足を踏み入れる“異国”。「これから私はどうなるのだろう」。不安でいっぱいだった。
博多港に引き揚げてくる人の波は途切れなかった。そのなかには、ソ連兵などに暴行されたために、体に変調を感じている女性もいた。
■ □
終戦後の45年11月から約1年半の間に、朝鮮半島や中国大陸から約139万人が引き揚げてきた福岡・博多港。韓国への高速船や中国へのコンテナ船が次々に出港していく現在の博多港では、「博多港引揚記念碑」以外に、命からがら引き揚げてきた人たちがいたことを示す跡は見当たらない。海峡を越えてたどり着いた祖国で、人々は何を見、何を体験したのか。引き揚げ者らの「戦後」を報告する。
メモ 終戦時、海外にいた軍人や市民などの日本人は約660万人。その半数以上が中国大陸で生活していた。終戦直前の1945年8月9日、ソ連が、翌年4月までが期限の日ソ中立条約を破り、満州と朝鮮半島北部に侵攻。満州では戦中に約6万人、停戦後に約18万5000人が死亡したほか、北朝鮮で約2万8000人が亡くなった。混乱した満州では、肉親と離れて取り残された「中国残留孤児」や、集団自決などの悲劇が起きた。
自宅を捨てたどり着いた日本人の収容所が、ソ連兵に襲われた体験を持つ人もいる。
「チャラ、チャラというサーベルの鎖の音と、軍靴の硬い靴音は今でも忘れられない」と振り返るのは、山本千恵子さん(69)(福岡県太宰府市)。
山本さんは家族6人で、朝鮮半島北部にある白頭山から東に約150キロの羅南で暮らしていた。ソ連侵攻後の45年8月13日、6人家族のうち、召集された父親を除く一家5人は山中に避難。ひたすら南側に向かって歩き続け、2か月後、約300キロ離れた興南の日本人収容所にたどり着いた。
しかし、弟がチフスで命を落とす。母が出産した女児はすぐに死亡。母親も3日後に息を引き取った。収容所での肉親は、当時9歳だった山本さんと姉、妹だけとなった。
「ソ連が来る」
ささやくような声が、収容所の棟から棟へと素早く伝えられる。1畳に2、3人が寝る狭い部屋だったが、みんなで畳を持ち上げ、若い女性を床下に押し込んで手早く元に戻した。
「マダム、ダワイ!(女を出せ)」
わめき声が近づき、サーベルの鎖と軍靴の音がドアの前で止まった。ドアを開けたソ連兵は、息を潜める一人ひとりの顔をのぞき込み、時には頭をつかんで顔を正面に向けさせ、女性でないかどうか確かめることもあった。
1度だけ、収容所の外で女性の悲鳴を聞いた。悲鳴は次第に遠ざかり、やがて聞こえなくなった。
「男性に見せかけて暴行を逃れるために、女性は髪を短く切って男物の服を着たり、顔に墨を塗ったりした。子供心にも『ソ連兵が来た時は黙っていないといけない』と思っていた」
収容所であった出来事を思い起こす時、山本さんの顔は今でもこわばる。
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帰国への最後の難関は、引き揚げ船だった。
京城(現韓国ソウル市)で生まれ育った森下昭子さん(79)(福岡市城南区)は45年10月、家族や親せきと満員の列車に乗り、釜山近くの街・鎮海にたどり着いた。1500トンの船には引き揚げ者が次々に押し込まれ、森下さんは、明かりもない真っ暗な甲板にひざを抱えて座り込んだ。聞こえてくるのは子供の泣き声と病人のうめき声、そして船が波を切る音だけ。船全体が暗い海に吸い込まれていくようで不気味だった。
「博多に着いたぞ!」
翌日、大声が聞こえた。船の先には、空襲で焼けただれた博多の街が広がっていた。下船後、人影もなく、黒っぽいがれきだけが広がる街を、博多駅まで30分ほどかけて歩いた。京城で育った森下さんにとって、日本は初めて足を踏み入れる“異国”。「これから私はどうなるのだろう」。不安でいっぱいだった。
博多港に引き揚げてくる人の波は途切れなかった。そのなかには、ソ連兵などに暴行されたために、体に変調を感じている女性もいた。
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終戦後の45年11月から約1年半の間に、朝鮮半島や中国大陸から約139万人が引き揚げてきた福岡・博多港。韓国への高速船や中国へのコンテナ船が次々に出港していく現在の博多港では、「博多港引揚記念碑」以外に、命からがら引き揚げてきた人たちがいたことを示す跡は見当たらない。海峡を越えてたどり着いた祖国で、人々は何を見、何を体験したのか。引き揚げ者らの「戦後」を報告する。
メモ 終戦時、海外にいた軍人や市民などの日本人は約660万人。その半数以上が中国大陸で生活していた。終戦直前の1945年8月9日、ソ連が、翌年4月までが期限の日ソ中立条約を破り、満州と朝鮮半島北部に侵攻。満州では戦中に約6万人、停戦後に約18万5000人が死亡したほか、北朝鮮で約2万8000人が亡くなった。混乱した満州では、肉親と離れて取り残された「中国残留孤児」や、集団自決などの悲劇が起きた。
これは メッセージ 32751 (hyugeru29 さん)への返信です.
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