日本の取るべき道
投稿者: sintekiseihintou 投稿日時: 2006/08/26 16:30 投稿番号: [28521 / 85019]
この国の政府は戦争責任を認めようとしない。
戦犯が再生日本の政治中枢に居残った為だ。
自民党はその最たるものだ。
「靖国の英霊」即ち、戦没職業軍人が
「国家の為に戦い万感の想いの中で死んでいった事を考えると安易に戦争責任は認められない」等と平然と言う。
この様な主張には次のように、反論する。
彼らの多くは国家の為に戦ったのではない。
自らの家族を守る事になると自らに言い聞かせて戦いの場に臨んだのである。
軍隊・戦場という非常な状況の中で、心身ともに疲弊・洗脳され、殺人という異常行為の遂行に向かったのである。
彼らをその様な状況に追い込んだ事自体が戦争責任なのである。
その背景に政治・産業・軍事のエゴがあった事は否定できない。
そして、これら政・産・軍は尚戦争責任を果たしていない。
それどころか、靖国の英霊を再び自己保身のために再利用しようとしているのである。
かの英霊達の祭祀を本気で考えるなら、彼らを家族の元に帰すべきである。
国家の首枷から解放すべきなのである。
一方、国民は戦後教育の中で、文部省管理下にあり、
戦後世代はこの事に付いて何等公的に判断材料を与えられる事はなかった。
豊かな暮らしを追い求め、その脳天気ぶりを世界にさらしている。
言いぐさは、「そんな事知りません。教えてもらっていません。」
知る努力をしたか否か。その事は不問である。
この様な態度も又、文部省により培われたものだ。
教科書検定は廃止すべきである。教科書の選択は教育委員会ではなく
学校現場の責任で行うべきである。
スポーツ・音楽が、この脳天気ぶりを助長するために動員され、
テレビが視線を逸らす機能をする。
もっと個人責任を追求すべきである。
機関責任を追求するのでは、責任所在が曖昧になる。
機関・組織はその中枢にある人物の志向の元に動くのは歴史の真実である。
それ故、その様な中枢人物の個人責任を追求すべきである。
第1外国語をハングル語にし、第2外国語を中国語にする程度の選択は行われて良い。
神功皇后は糾弾されるべきである。 豊臣秀吉は糾弾されるべきである。
西郷隆盛は糾弾されるべきである。 伊藤博文は糾弾されるべきである。
寺内毅は糾弾されるべきである。 裕仁は糾弾されるべきである。
これ等の命令に従った者達は糾弾されるべきである。
買春旅行をする日本人は個人名を明らかにして糾弾すべきである。
アジアの諸国を経済搾取する企業は、その実体を糾弾すべきである。
オリンピックで日の丸を揚げよう等という言いぐさは、
国家主義・帝国主義の残滓以外の何ものでもない。
戦争責任を取るとは、具体的には何か。
歴史は戻せない。死者は生き返らない。心の傷は癒せない。
では、状況を考える時、豊かな日本であるならば、
日本軍の占領を受けた国の人々が、日本人と同じレベルの経済力をつけるまで、
紐付きではない無償の経済援助を行う他はない。
あるいは日本人が彼らと同レベルまで貧しくなる事である。
個人レベルでは、この主旨の元にアジアからの輸入品を買う事である。
欧米の高価なブランド品を買う前に、無名のアジア製品を買うべきである。
日本の経済力や技術力を誇る事は、すべきではない。
侵略行為により、彼らの経済的基盤を根こそぎ奪い去ったのであり、
彼らの目でみれば、現日本の経済力は彼らの犠牲の上に成立しているとしか映らない。
この様な歴史背景・経済背景で暮らしている以上、日本の戦後世代に責任無しとは言えない。
戦争責任を果たし切るのは、何時か。
それは日本が判断すべき事ではない。他国の国民が、その民意として
「もう充分である」と告げてくれた時に、果たしきるのである。
戦犯が再生日本の政治中枢に居残った為だ。
自民党はその最たるものだ。
「靖国の英霊」即ち、戦没職業軍人が
「国家の為に戦い万感の想いの中で死んでいった事を考えると安易に戦争責任は認められない」等と平然と言う。
この様な主張には次のように、反論する。
彼らの多くは国家の為に戦ったのではない。
自らの家族を守る事になると自らに言い聞かせて戦いの場に臨んだのである。
軍隊・戦場という非常な状況の中で、心身ともに疲弊・洗脳され、殺人という異常行為の遂行に向かったのである。
彼らをその様な状況に追い込んだ事自体が戦争責任なのである。
その背景に政治・産業・軍事のエゴがあった事は否定できない。
そして、これら政・産・軍は尚戦争責任を果たしていない。
それどころか、靖国の英霊を再び自己保身のために再利用しようとしているのである。
かの英霊達の祭祀を本気で考えるなら、彼らを家族の元に帰すべきである。
国家の首枷から解放すべきなのである。
一方、国民は戦後教育の中で、文部省管理下にあり、
戦後世代はこの事に付いて何等公的に判断材料を与えられる事はなかった。
豊かな暮らしを追い求め、その脳天気ぶりを世界にさらしている。
言いぐさは、「そんな事知りません。教えてもらっていません。」
知る努力をしたか否か。その事は不問である。
この様な態度も又、文部省により培われたものだ。
教科書検定は廃止すべきである。教科書の選択は教育委員会ではなく
学校現場の責任で行うべきである。
スポーツ・音楽が、この脳天気ぶりを助長するために動員され、
テレビが視線を逸らす機能をする。
もっと個人責任を追求すべきである。
機関責任を追求するのでは、責任所在が曖昧になる。
機関・組織はその中枢にある人物の志向の元に動くのは歴史の真実である。
それ故、その様な中枢人物の個人責任を追求すべきである。
第1外国語をハングル語にし、第2外国語を中国語にする程度の選択は行われて良い。
神功皇后は糾弾されるべきである。 豊臣秀吉は糾弾されるべきである。
西郷隆盛は糾弾されるべきである。 伊藤博文は糾弾されるべきである。
寺内毅は糾弾されるべきである。 裕仁は糾弾されるべきである。
これ等の命令に従った者達は糾弾されるべきである。
買春旅行をする日本人は個人名を明らかにして糾弾すべきである。
アジアの諸国を経済搾取する企業は、その実体を糾弾すべきである。
オリンピックで日の丸を揚げよう等という言いぐさは、
国家主義・帝国主義の残滓以外の何ものでもない。
戦争責任を取るとは、具体的には何か。
歴史は戻せない。死者は生き返らない。心の傷は癒せない。
では、状況を考える時、豊かな日本であるならば、
日本軍の占領を受けた国の人々が、日本人と同じレベルの経済力をつけるまで、
紐付きではない無償の経済援助を行う他はない。
あるいは日本人が彼らと同レベルまで貧しくなる事である。
個人レベルでは、この主旨の元にアジアからの輸入品を買う事である。
欧米の高価なブランド品を買う前に、無名のアジア製品を買うべきである。
日本の経済力や技術力を誇る事は、すべきではない。
侵略行為により、彼らの経済的基盤を根こそぎ奪い去ったのであり、
彼らの目でみれば、現日本の経済力は彼らの犠牲の上に成立しているとしか映らない。
この様な歴史背景・経済背景で暮らしている以上、日本の戦後世代に責任無しとは言えない。
戦争責任を果たし切るのは、何時か。
それは日本が判断すべき事ではない。他国の国民が、その民意として
「もう充分である」と告げてくれた時に、果たしきるのである。
これは メッセージ 1 (topics_editor さん)への返信です.
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