民族殿 貴方のお国の方の お言葉です。④
投稿者: scorpionti 投稿日時: 2006/04/16 07:38 投稿番号: [23222 / 85019]
当時の学校教育
僕の父(1903〜69)によれば、当時日本の教師達が
学齢期の子供のある家を訪ね回りながら、その
父母に小学校に入れるよう頼み込んだそうである。
日本と合併して、日本人の建てた学校に送るのを躊躇
した父兄が大分あったらしい。だがそれも束の間、
父より七つ下の叔父の時になると、中学校はもとより
小学校も入学試験で受験生を選抜した。
寺内総督当時は日本の官吏は文官も含めて、すべて
軍服にサーベルを下げていたというが、1919年、
齋藤総督に代ってからは文官の佩刀<はいとう>が
廃され平服になったという。
僕は1926年(大正15年)10月に京城で生まれ、
数え年二十で終戦を迎えた。
小学校から中学校の教育をほとんど日本人教師から受
けており終戦当時は京城高等工業の学生として日本人
学生と共に学んでいた。だから、植民地時代の朝鮮の
有り様については一応総合的な構図を捉えている
つもりでいる。
僕の場合6歳で京城師範学校附属小学校に入学した時、
初めて日本人と出会った。一年から四年までは
緒方篤三郎先生、五年と六年は朝岡寛一郎先生が受け
持たれた。
お二方は親切誠実なうえ大らかで、曲ったことは決し
て受け入れない性格であられた。このお二方は僕の
恩人であり、僕の人格形成に影響を与えられた。
特に朝岡先生には、僕らが六年になってからは放課後
の課外授業もしていただき、そのお陰もあって、僕は
名門の京畿中に受かった。
当時、朝鮮内の中学校には朝鮮人だけ、日本人だけ、
また、少数ながら韓日共学の学校があった。京畿中は
朝鮮人だけの中学校であった。当時、
小学校にしろ中学校にしろ、日本人と朝鮮人の学生間
には、お互いによそ者という感情はあったものの、
敵対感情はほとんどみられなかった。
僕が通った師範附属には日本人専用の第一小学校と
朝鮮人専用の第二小学校があって、それぞれ別の
運動場を中にして隔たっていた。しかし、
僕らは六年間を通して、第一附属の日本人学生と反目
やいさかいに及んだ覚えはない。
続
これは メッセージ 23219 (scorpionti さん)への返信です.
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