朝鮮の ウソツク教授の 種は尽きまじ
投稿者: punzen_fun 投稿日時: 2006/01/04 11:23 投稿番号: [19123 / 85019]
>伝統芸能の能や歌舞伎まで韓国起源ですからね
宮内庁も表には出さないけど
雅楽なんかも韓国起源ですよね<
おやおや 年が変わっても起源捏造癖は治らないようだね。
ちょっと調べたら嘘だとすぐにばれるよ。
雅楽は日本古来の歌舞にインド、ベトナム、中国、朝鮮などの外来音楽を取り入れて日本独自に発展させたものであることが分りますよね。
ここで一句
『朝鮮の ウソツク教授の 種は尽きまじ』
コピペだけど
》
雅楽の歴史
雅楽」という言葉は、俗楽に対する「雅正の楽」という意味を持っている。
雅楽とは、日本古来の歌舞、外来の音楽舞踊、平安期に作られた歌曲の総称である。外来音楽の伝来は飛鳥時代に始まり、百済、新羅、高句麗などの三韓楽が朝鮮半島より伝えられたのが始まりである。この三韓楽が、後の高麗楽の源流となった。
奈良時代になると、唐楽(中国)、林邑楽(ベトナム)、渤海楽(満州)、渡羅楽(済州島)などが伝来した。これらの外来の音楽舞踊は、平安時代に唐楽と高麗楽に分類され、唐楽は左方、高麗楽は右方に編成された。唐楽(左方)には、天竺楽(インド)、林邑楽、渡羅楽などが含まれ、高麗楽(右方)には、渤海楽などの朝鮮系のものが含まれた。
七〇一年(大宝元年)、大宝律令が制定され、太政官治部省に雅楽寮が置かれた。雅楽寮は日本で初めての公的な音楽機関であり、国家の儀式や大寺院の法会などで奏楽がなされるようになった。
七五二年(天平勝宝四年)、奈良東大寺の大仏開眼会が行われ、インドから来たバラモン僧が導師となり数百万の僧をしたがえた史上最大規模の大法要であったと記録されている。その時に使った楽器、装束などが今も正倉院に保存されている。
平安時代には、日本独特のものを尊重する風潮が高まり国風文化が繁栄した。宮廷貴族の生活の中にも雅楽は深く入り込み、源信、藤原貞敏、源博雅などが作曲を手がけるなど、雅楽は王朝文化の中心にあって最盛期を迎える。
九世紀の中頃には楽制改革が行なわれ、楽器の編成も現在のものに改められた。そして、十世紀には、京都、奈良、大阪に三方楽所(大内楽所、南都楽所、天王寺楽所)が成立する。しかし、平安時代末期には、宮廷文化を支えていた貴族の力が衰えるに伴い、雅楽も衰退していった。
一四六七年(応仁元年)、応仁の乱が起こり京都は戦火に見舞われた。そのために京都の楽人が四散し、多くの楽器や装束が焼失したが、豊臣秀吉の保護により復興することができた。
江戸時代に入り、雅楽は儀式楽として京都御所と江戸城紅葉山に集められた楽人たちによって行われるようになった。
明治に入ると、政府は三方楽所の楽人を東京に呼び寄せ、宮内省雅楽局を編成した。この頃、楽家以外の者が雅楽を習うことを一時禁止したが、一八七三年(明治六年)には雅楽の一般人への教習が認められた。
こうして現在に至り、宮内庁式部職楽部(重要無形文化財団体指定/総理府技官)が中心となって雅楽の保存に力を入れている。
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宮内庁も表には出さないけど
雅楽なんかも韓国起源ですよね<
おやおや 年が変わっても起源捏造癖は治らないようだね。
ちょっと調べたら嘘だとすぐにばれるよ。
雅楽は日本古来の歌舞にインド、ベトナム、中国、朝鮮などの外来音楽を取り入れて日本独自に発展させたものであることが分りますよね。
ここで一句
『朝鮮の ウソツク教授の 種は尽きまじ』
コピペだけど
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雅楽の歴史
雅楽」という言葉は、俗楽に対する「雅正の楽」という意味を持っている。
雅楽とは、日本古来の歌舞、外来の音楽舞踊、平安期に作られた歌曲の総称である。外来音楽の伝来は飛鳥時代に始まり、百済、新羅、高句麗などの三韓楽が朝鮮半島より伝えられたのが始まりである。この三韓楽が、後の高麗楽の源流となった。
奈良時代になると、唐楽(中国)、林邑楽(ベトナム)、渤海楽(満州)、渡羅楽(済州島)などが伝来した。これらの外来の音楽舞踊は、平安時代に唐楽と高麗楽に分類され、唐楽は左方、高麗楽は右方に編成された。唐楽(左方)には、天竺楽(インド)、林邑楽、渡羅楽などが含まれ、高麗楽(右方)には、渤海楽などの朝鮮系のものが含まれた。
七〇一年(大宝元年)、大宝律令が制定され、太政官治部省に雅楽寮が置かれた。雅楽寮は日本で初めての公的な音楽機関であり、国家の儀式や大寺院の法会などで奏楽がなされるようになった。
七五二年(天平勝宝四年)、奈良東大寺の大仏開眼会が行われ、インドから来たバラモン僧が導師となり数百万の僧をしたがえた史上最大規模の大法要であったと記録されている。その時に使った楽器、装束などが今も正倉院に保存されている。
平安時代には、日本独特のものを尊重する風潮が高まり国風文化が繁栄した。宮廷貴族の生活の中にも雅楽は深く入り込み、源信、藤原貞敏、源博雅などが作曲を手がけるなど、雅楽は王朝文化の中心にあって最盛期を迎える。
九世紀の中頃には楽制改革が行なわれ、楽器の編成も現在のものに改められた。そして、十世紀には、京都、奈良、大阪に三方楽所(大内楽所、南都楽所、天王寺楽所)が成立する。しかし、平安時代末期には、宮廷文化を支えていた貴族の力が衰えるに伴い、雅楽も衰退していった。
一四六七年(応仁元年)、応仁の乱が起こり京都は戦火に見舞われた。そのために京都の楽人が四散し、多くの楽器や装束が焼失したが、豊臣秀吉の保護により復興することができた。
江戸時代に入り、雅楽は儀式楽として京都御所と江戸城紅葉山に集められた楽人たちによって行われるようになった。
明治に入ると、政府は三方楽所の楽人を東京に呼び寄せ、宮内省雅楽局を編成した。この頃、楽家以外の者が雅楽を習うことを一時禁止したが、一八七三年(明治六年)には雅楽の一般人への教習が認められた。
こうして現在に至り、宮内庁式部職楽部(重要無形文化財団体指定/総理府技官)が中心となって雅楽の保存に力を入れている。
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これは メッセージ 19108 (cia_pass さん)への返信です.
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