日本史教科書
投稿者: tecks10 投稿日時: 2005/05/13 20:49 投稿番号: [11291 / 85019]
山川出版社
日本史
<日露戦後の国際関係と植民地>
日露戦争後の日本は、東アジアで勢力を拡大し、植民地を獲得して行った。
日本はすでに1904(明治37)年、日露開戦直後の日韓議定書で韓国での軍事行動を認めさせていたが、続いて第1次日韓協約を結んで、日本が推薦する財政・外交顧問を韓国政府に置き、重要な外交案件は事前に日本政府と協議する事を認めさせた。
1905(明治38)年にはアメリカとの間に非公式の協定(桂・タフト協定)を結び、イギリスとは日英同盟協約を改定して、両国に日本の韓国保護国化を承認させた。
こうした列強との調整を背景に、同年中に第2次日韓協約(乙巳保護条約)を結んで韓国の外交権を奪い、漢城(現、ソウル)に韓国総監府をおいて、伊藤博文が初代の総監となった。
これに対し韓国は、1907(明治40)年にハーグで開かれた第2回万国平和会議に皇帝の密使を送って抗議したが、容れられなかった(ハーグ密使事件)。
日本はこの事件をきっかけに第3次日韓協約を結び、韓国の内政権もその手中に収め、ついで韓国の軍隊を解散した。これに対して、韓国民衆は、それまで散発的に起こしていた義兵運動に、解散された軍隊の参加を得て、反日運動を本格化させた。
日本政府は、1909(明治42)年に軍隊を増派して義兵運動を鎮圧したが、そのさなかに伊藤博文がハルビン駅頭で韓国の民族運動化 安重根に殺される事件がおこると、憲兵隊を常駐させて韓国の警察権も奪った。
こうした準備の上に立って、日本政府は翌1910(明治43)年、韓国併合条約を強要して韓国を植民地とした(韓国併合)。
韓国の名は消えて日本領朝鮮となり、京城(漢城の改称)には韓国総監府を改組した朝鮮総督府がおかれ、初代総督は陸軍大臣の寺内正毅が兼任した。
朝鮮総督は天皇直属で当初は武官に限られ、警察の要職は日本の憲兵隊が兼任した。総督府はまた、地税の整理と日本人地主の土地所有の拡大を目指して土地調査事業に着手し、1918(大正7年)に完了した。これによって小農民の没落が進み、その一部の人々は仕事を求めて日本に移住するようになった。
これはどこの国の教科書だろうか?。
<日露戦後の国際関係と植民地>
日露戦争後の日本は、東アジアで勢力を拡大し、植民地を獲得して行った。
日本はすでに1904(明治37)年、日露開戦直後の日韓議定書で韓国での軍事行動を認めさせていたが、続いて第1次日韓協約を結んで、日本が推薦する財政・外交顧問を韓国政府に置き、重要な外交案件は事前に日本政府と協議する事を認めさせた。
1905(明治38)年にはアメリカとの間に非公式の協定(桂・タフト協定)を結び、イギリスとは日英同盟協約を改定して、両国に日本の韓国保護国化を承認させた。
こうした列強との調整を背景に、同年中に第2次日韓協約(乙巳保護条約)を結んで韓国の外交権を奪い、漢城(現、ソウル)に韓国総監府をおいて、伊藤博文が初代の総監となった。
これに対し韓国は、1907(明治40)年にハーグで開かれた第2回万国平和会議に皇帝の密使を送って抗議したが、容れられなかった(ハーグ密使事件)。
日本はこの事件をきっかけに第3次日韓協約を結び、韓国の内政権もその手中に収め、ついで韓国の軍隊を解散した。これに対して、韓国民衆は、それまで散発的に起こしていた義兵運動に、解散された軍隊の参加を得て、反日運動を本格化させた。
日本政府は、1909(明治42)年に軍隊を増派して義兵運動を鎮圧したが、そのさなかに伊藤博文がハルビン駅頭で韓国の民族運動化 安重根に殺される事件がおこると、憲兵隊を常駐させて韓国の警察権も奪った。
こうした準備の上に立って、日本政府は翌1910(明治43)年、韓国併合条約を強要して韓国を植民地とした(韓国併合)。
韓国の名は消えて日本領朝鮮となり、京城(漢城の改称)には韓国総監府を改組した朝鮮総督府がおかれ、初代総督は陸軍大臣の寺内正毅が兼任した。
朝鮮総督は天皇直属で当初は武官に限られ、警察の要職は日本の憲兵隊が兼任した。総督府はまた、地税の整理と日本人地主の土地所有の拡大を目指して土地調査事業に着手し、1918(大正7年)に完了した。これによって小農民の没落が進み、その一部の人々は仕事を求めて日本に移住するようになった。
これはどこの国の教科書だろうか?。
これは メッセージ 1 (topics_editor さん)への返信です.
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