金芝河なども結局「韓国人」に縛られてる
投稿者: paul_smith_suki 投稿日時: 2003/11/05 13:42 投稿番号: [13 / 129]
「韓国人」は、結局韓国人の映画しか撮れない。
韓国人の運命と悲劇の中に人間を見出そうとしている。
結局、韓国人の枠からは抜けられないのだ。
軍事独裁政権との戦いなど、日本であれば、江戸期の
高野長明や大塩平八郎の思想の中にも見出せるし、
そういう社会的な次元での普遍性を言っているのではないのだ。
私が言っているのはそういう低い次元の普遍性ではない。
「赤ひげ」や「生きる」のような人間というものの本質
を追求した映画だけではなく、黒沢の「デルスウザーラ」や
宮崎駿の「千と千尋の神隠し」のような、自然の中での人間
生き様のようなダイナミズム、子供の生命力のような繊細な世界、
文明の危機のような高次元の世界を描けるかどうかだ。
見るところ、韓国芸術は、たとえば善悪を描いても、
2言論的な世界しか描けないように見える。
たとえば歴史についてもそうなのだ。日本人は、織田信長
という人間を実に様様な側面から見るし、彼を悪と善で判
断しようとはしない。
日本人は、物事をもっと繊細に、広い心で深くとらえようと
する。だから、日本はつねにオリジナリティあふれる芸術の発信源
となりえる。
韓国は、見る限り全ての点で浅い。
これは メッセージ 12 (Tokyo_Washoi さん)への返信です.
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