Re: 聖書にクジラ食ってはダメと書いてるか
投稿者: maeenntotyau 投稿日時: 2010/01/10 11:51 投稿番号: [2217 / 3732]
>仏教徒すべての基本的な戒律なので
↑そりゃ「大乗仏教」ではでしょう。
宗派によってずいぶん違いますぜ。
三種の浄肉(さんしゅのじょうにく)とは、初期仏教の僧が托鉢の際、自らが戒律中五戒の不殺生戒を犯さない布施の場合は肉食してよいというもの。
その条件は、次のとおり。
殺されるところを見ていない
自分に供するために殺したと聞いていない
自分に供するために殺したと知らない。
簡単な例をあげると、こういう事になる。 夕刻、托鉢の際に僧侶が村を訪れた。ある家では鶏肉のカレーを作っていた。このさい、
托鉢中に僧侶が、カレーを作るのを鶏を潰すところから見学したり、家族もしくはその僧侶が鶏を潰した場合――×
同。「自らが殺した獣でない」こと、「殺されるところを見ていない」ことに反する。
恐らく僧侶がこの村を通りかかるであろうから、家族の数より余分にカレーを作り、布施する際、僧侶に「せっかく鶏を潰すのだからお坊さんの分も作りました」と告白した場合――×
口にしてはならない。「自分に供するために殺したと聞いていない」ことに反する。
見当や分量の違いなどからカレーが余ってしまい、たまたま通りかかった僧侶に布施をした場合――○
現代の見方からすれば、一見不殺生戒に反する、生臭坊主の虫のよい理屈に聞こえるかもしれないが、釈迦の時代の原始仏教の考え方である。これはもともと比丘・比丘尼とはあの当時の言語で「乞食」という意味であり、托鉢は他人の余りものを物乞いして食するという意味であったからである。あくまでも他人の食事の余りものを食べているのだからその肉を食べようとも間接殺にはならない。また他人から物乞いして食べ物を享受している立場にありながら、食事に好き嫌いを示すのはよろしくないという理由である。比丘・比丘尼は托鉢によって日々の糧を得るが、食物を布施する在家の者の皆が食事を選り好み出来る身分の者ばかりではなかった。獣の肉しか提供できない者からの布施を拒むことは、善行を積む機会を奪うことになる。そのため托鉢僧は、布施された食物は選り好みせず、ありがたく受け取るということである。
これは メッセージ 2211 (wasabi701 さん)への返信です.
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