自主独立の道を自ら拒んだ李王朝。
投稿者: s822sanukiudon 投稿日時: 2012/04/17 23:45 投稿番号: [1610 / 1895]
李朝成立後、484年が過ぎた1876年2月に結ばれた「日朝修好条規」は、全12
条から成る。
この修好条規の第一条に「朝鮮国は自主の国」とあることは、極めて重要な
意義を持つ。1392年の李朝開国は、高麗の重臣であった李成桂が、明との戦
いで遼東地方奪回に出陣し、密かに敵と通じて威化島で軍を翻し、逆にとき
の高麗王と上官の崔瑩将軍を殺し、政権を簒奪した結果によるものである。
敵国であった明の協力で打ち立てた国であるから、その後の李朝が明の隷属
国家に転落したのは必然である。国民は奴隷民族化され、私有財産も没収さ
れた。李朝は専制王権制度に体制を変え、朝鮮民族が古代から高麗にいたる
まで連綿と待ち続けた国際的自尊心を放棄し、明の属国として堕落が始まる
このような環境の中で、階級制度は固定化し、創意工夫の精神は圧殺された
こうして李朝は、搾取と虐政の中にあり、国王は名ばかりで何ら政策も施さ
ず、その政府には国家の予算すら存在しないという無軌道ぶりだった。
いわば民衆は無政府状態に置かれていたのだ。
それを考えると、「日朝修好条規」第一条の「朝鮮国は自主独立の国」との
言葉の持つ意味の重大さがわかってくる。だが清と朝鮮との主従関係を断ち
切ろうとした日本の狙いは、実際には実現にほど遠く、清の保護下にある李
朝の専横は変わることなく、民衆は相も変わらず塗炭の苦しみを味わってい
た。近代化と自主独立の道を拒否し続ける李朝の存在は、東アジアの情勢に
不穏な種を宿していた。
李朝は1897年、国号を「大韓帝国」とあらため、年号を「光武」とした。
王を皇帝と称し、表面的には五百十余年ぶりに明・清の束縛を脱し、独立国
家を形成したが、実態は、何ら変わるところがなかった。
1904年、日清戦争に次いで日露戦争を控えた日本は、こうした朝鮮の惨状を
見かねて、目賀田種太郎を財政顧問として派遣し、日本からの財政支援をも
とに、李朝をまともな国として建て直す態勢がようやく緒に就くこととなっ
た。これが真実の歴史だ。
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