オウム事件/河野善行さんとメディア
投稿者: shiranugahodoke 投稿日時: 2011/11/21 17:56 投稿番号: [1025 / 1557]
オウム事件と、切っても切り離せない河野善行さんのお話
ウィキペディアより
>来歴
愛知県豊橋市に生まれ、名城大学理工学部を卒業した。山岳写真家の河野齢蔵は妻の祖父にあたる。
1994年6月27日夜に発生した松本サリン事件に際して事件の第一通報者となった。警察から事件への関与が疑われ、長野県警察は河野の自宅の家宅捜索を実施した。この捜索において農薬が発見されたことや、河野宅において不審な煙を見たとの証言があり警察の嫌疑が深まった。のちに証言については虚偽と判明し、また農薬からサリンは合成できないことが判明している。
警察の捜査および情報のリークを受け、地元紙の信濃毎日新聞や主要な全国紙を含め多くのメディアが河野を犯人として扱った。河野は断続的に警察の取り調べを受けたが、有力な証拠が見つからず逮捕されることはなかった。
その後、山梨県の上九一色村のオウム施設周辺において不審な証拠が発見され、さらに1995年3月に発生した地下鉄サリン事件によって、松本サリン事件もオウム真理教の犯行であることが判明し、河野への疑いは完全に解消された。
捜査当時の国家公安委員長であった野中広務は河野に謝罪し、マスメディア各社は報道被害を認めて謝罪文を掲載したのみで、本人への直接謝罪は皆無であった。長野県警は遺憾の意を表明したのみで「謝罪というものではない」と公式な謝罪を行わなかった。長野県警本部長が当時の捜査の誤りとそれに起因する河野の被害について謝罪したのは河野が長野県公安委員に就任して以後のことであった。
公安委員在職中の活動
2002年に長野県知事であった田中康夫の要請を受けて、長野県警を監督する長野県公安委員を1期務めた。
飯田市大王路の無職の女性(当時77歳)が2004年4月に殺害され、当時、その長女が「犯人扱いされた」と訴えていた問題で、私人として長女宅を訪れ、長女らと約2時間半にわたって非公開で面談した。
飯田署でポリグラフ(うそ発見器)をかけられたことや強要された自白、深夜まで事情聴取を受けたことなどについて説明する長女に対し、松本サリン事件で一時容疑者扱いを受けた自身の体験を話した。
面談後、「直接の謝罪は必要。市民にとって大きな負担となる捜査方法は改善すべき」として、県公安委員会で警察側に陳謝の要望があったことを報告すると約束。任意の事情聴取を何時間以内にとどめるべきかなど捜査の指針作成を提案する意向を示した。
事情聴取のポリグラフについて、「一般市民には非日常的なことだが、警察にすれば日常的。そのギャップは大きい」と指摘した上で、「今後は県警が配慮してギャップを埋めていく必要がある」とした。
この件に対し、長女は「話を聞いてもらって楽になった。」と話している[1]。
その後、生坂ダム殺人事件の長野県警の捜査ミス糾弾(他殺死体を自殺事件と断定したが、公訴時効成立後に覚せい剤所持等の別件で逮捕された犯人の任意の自白により殺人事件と判明)において、田中知事と対立し公安委員を更迭された[2]。
妻はサリンによる被害により意識不明状態から回復せず河野が介護していたが、2008年8月5日に60歳で死去した。その死に際して「我が家におけるサリン事件はこれで終結したものと考えています」とコメントを出した。
2010年8月、妻の三回忌の後、鹿児島県に移住することを発表した。
ウィキペディアより
>来歴
愛知県豊橋市に生まれ、名城大学理工学部を卒業した。山岳写真家の河野齢蔵は妻の祖父にあたる。
1994年6月27日夜に発生した松本サリン事件に際して事件の第一通報者となった。警察から事件への関与が疑われ、長野県警察は河野の自宅の家宅捜索を実施した。この捜索において農薬が発見されたことや、河野宅において不審な煙を見たとの証言があり警察の嫌疑が深まった。のちに証言については虚偽と判明し、また農薬からサリンは合成できないことが判明している。
警察の捜査および情報のリークを受け、地元紙の信濃毎日新聞や主要な全国紙を含め多くのメディアが河野を犯人として扱った。河野は断続的に警察の取り調べを受けたが、有力な証拠が見つからず逮捕されることはなかった。
その後、山梨県の上九一色村のオウム施設周辺において不審な証拠が発見され、さらに1995年3月に発生した地下鉄サリン事件によって、松本サリン事件もオウム真理教の犯行であることが判明し、河野への疑いは完全に解消された。
捜査当時の国家公安委員長であった野中広務は河野に謝罪し、マスメディア各社は報道被害を認めて謝罪文を掲載したのみで、本人への直接謝罪は皆無であった。長野県警は遺憾の意を表明したのみで「謝罪というものではない」と公式な謝罪を行わなかった。長野県警本部長が当時の捜査の誤りとそれに起因する河野の被害について謝罪したのは河野が長野県公安委員に就任して以後のことであった。
公安委員在職中の活動
2002年に長野県知事であった田中康夫の要請を受けて、長野県警を監督する長野県公安委員を1期務めた。
飯田市大王路の無職の女性(当時77歳)が2004年4月に殺害され、当時、その長女が「犯人扱いされた」と訴えていた問題で、私人として長女宅を訪れ、長女らと約2時間半にわたって非公開で面談した。
飯田署でポリグラフ(うそ発見器)をかけられたことや強要された自白、深夜まで事情聴取を受けたことなどについて説明する長女に対し、松本サリン事件で一時容疑者扱いを受けた自身の体験を話した。
面談後、「直接の謝罪は必要。市民にとって大きな負担となる捜査方法は改善すべき」として、県公安委員会で警察側に陳謝の要望があったことを報告すると約束。任意の事情聴取を何時間以内にとどめるべきかなど捜査の指針作成を提案する意向を示した。
事情聴取のポリグラフについて、「一般市民には非日常的なことだが、警察にすれば日常的。そのギャップは大きい」と指摘した上で、「今後は県警が配慮してギャップを埋めていく必要がある」とした。
この件に対し、長女は「話を聞いてもらって楽になった。」と話している[1]。
その後、生坂ダム殺人事件の長野県警の捜査ミス糾弾(他殺死体を自殺事件と断定したが、公訴時効成立後に覚せい剤所持等の別件で逮捕された犯人の任意の自白により殺人事件と判明)において、田中知事と対立し公安委員を更迭された[2]。
妻はサリンによる被害により意識不明状態から回復せず河野が介護していたが、2008年8月5日に60歳で死去した。その死に際して「我が家におけるサリン事件はこれで終結したものと考えています」とコメントを出した。
2010年8月、妻の三回忌の後、鹿児島県に移住することを発表した。
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