同郷の支持率を上げる捨石の戦略行動(1
投稿者: hato2peace 投稿日時: 2013/02/15 20:05 投稿番号: [1153 / 1170]
Re: 国賊
自民党
加藤
紘一
> 「ほんとに(中国は)やったのかな…」
日本政府よりも他国政府を信じる、このような価値観は、
米占領軍のウォー・ギルト・インフォーメーション・プログラムが功を奏しているからだろう。
戦後的価値観が今も日本を蝕んでいる。
加藤紘一にしても、河野洋平にしても、鳩山、菅、そして日本ではなく他国を信じる態度をとる少なからぬ日本人たち。
建国記念日の憲法改正集会と護憲集会を比較すると、護憲集会は団塊世代の参加者でしめられていた。憲法改正派の集会は年齢に広がりがあるのに。団塊世代とは米軍のウォー・ギルト・インフォーメーション・プログラムの直接的影響を被った人々であろう。
それにしても加藤紘一や河野洋平は、証人喚問して彼らの談話が根拠のなさを認めさせ、河野洋平には桐花大綬章を返還させるべき。
(投稿者のID/ニックネーム:toto_yumenosuke/ゆめのすけさん)
=========================
横レスで失礼致します。
昨今の、外国をご主人様とする様な、御用マスコミやお抱え政治家の人々の自虐的言動には迷惑千万な観が否めません。
その様な魂を持っているのであれば、自分の領土から出ないで、自分の国の領土で生活するのが人間だろう、と言うところは、この日本の国の人の感覚の様です。
でも、国や宗教や民族に依っては、恰好が良い英雄の行動で有り、賛美される発言なのですねぇ。
それは、固有の遺伝子の作用である固有の感覚から生まれる、必然の結果現象として、そこに喜怒哀楽を共有し、幸福を共有するので、対照的には異なることで有っても、どちらも「普遍の公理に基づく定理」として、その言動が有るのです。
即ち、どちらも、自分達が生きる為に必要な言動、生存権の為の言動なのです。
故に、そこに膨張する問題を解決することや未然に防ぐ為には、双方の経験と伝聞と知識を生かすことが、求められる様に見受けられます。
そして、その為に前提的に必要に成る事柄としては、
イ)正確に相手の実相を認識すること。
ロ)自分たちの共通の認識とすること。
ハ)暴走しない様に制御できるレベルで、双方が同じレベルで攻撃精神を練ること。
この様な在り方で有れば、平和は継続するでしょう。
平和を壊す要素として、「暴走する単位社会の存在性」だけがクローズアップされる昨今ですが、実はその寓話の様なお話よりも、平和が崩れる発端は、認識錯誤からの攻撃精神の空洞化と無気力と無関心なのですねぇ。
当たり前と言えば当たり前で、そこには自然に、蜜の染み出る幹でカブトムシが戦いを始める様に、必然の結果として、生存権を掛けた闘争が始まるのです。
後から、
「その様なつもりは無かった」と言っても、その様な言葉に正当性や意味が有るのか無いのか問題では無く成るのです。
何故ならば、それが生存権を掛けた戦いだからです。
一旦、生存権の掛かった抗生の関係や戦いが発生した場合には、法的な正当性や学問的な整合性は、意味が無いのです。
それも言って見れば当たり前なのですが、勝った方が、作ることに過ぎないからです。
> 「ほんとに(中国は)やったのかな…」
日本政府よりも他国政府を信じる、このような価値観は、
米占領軍のウォー・ギルト・インフォーメーション・プログラムが功を奏しているからだろう。
戦後的価値観が今も日本を蝕んでいる。
加藤紘一にしても、河野洋平にしても、鳩山、菅、そして日本ではなく他国を信じる態度をとる少なからぬ日本人たち。
建国記念日の憲法改正集会と護憲集会を比較すると、護憲集会は団塊世代の参加者でしめられていた。憲法改正派の集会は年齢に広がりがあるのに。団塊世代とは米軍のウォー・ギルト・インフォーメーション・プログラムの直接的影響を被った人々であろう。
それにしても加藤紘一や河野洋平は、証人喚問して彼らの談話が根拠のなさを認めさせ、河野洋平には桐花大綬章を返還させるべき。
(投稿者のID/ニックネーム:toto_yumenosuke/ゆめのすけさん)
=========================
横レスで失礼致します。
昨今の、外国をご主人様とする様な、御用マスコミやお抱え政治家の人々の自虐的言動には迷惑千万な観が否めません。
その様な魂を持っているのであれば、自分の領土から出ないで、自分の国の領土で生活するのが人間だろう、と言うところは、この日本の国の人の感覚の様です。
でも、国や宗教や民族に依っては、恰好が良い英雄の行動で有り、賛美される発言なのですねぇ。
それは、固有の遺伝子の作用である固有の感覚から生まれる、必然の結果現象として、そこに喜怒哀楽を共有し、幸福を共有するので、対照的には異なることで有っても、どちらも「普遍の公理に基づく定理」として、その言動が有るのです。
即ち、どちらも、自分達が生きる為に必要な言動、生存権の為の言動なのです。
故に、そこに膨張する問題を解決することや未然に防ぐ為には、双方の経験と伝聞と知識を生かすことが、求められる様に見受けられます。
そして、その為に前提的に必要に成る事柄としては、
イ)正確に相手の実相を認識すること。
ロ)自分たちの共通の認識とすること。
ハ)暴走しない様に制御できるレベルで、双方が同じレベルで攻撃精神を練ること。
この様な在り方で有れば、平和は継続するでしょう。
平和を壊す要素として、「暴走する単位社会の存在性」だけがクローズアップされる昨今ですが、実はその寓話の様なお話よりも、平和が崩れる発端は、認識錯誤からの攻撃精神の空洞化と無気力と無関心なのですねぇ。
当たり前と言えば当たり前で、そこには自然に、蜜の染み出る幹でカブトムシが戦いを始める様に、必然の結果として、生存権を掛けた闘争が始まるのです。
後から、
「その様なつもりは無かった」と言っても、その様な言葉に正当性や意味が有るのか無いのか問題では無く成るのです。
何故ならば、それが生存権を掛けた戦いだからです。
一旦、生存権の掛かった抗生の関係や戦いが発生した場合には、法的な正当性や学問的な整合性は、意味が無いのです。
それも言って見れば当たり前なのですが、勝った方が、作ることに過ぎないからです。
これは メッセージ 1114 (ゆめのすけ さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/200000439/cf9qbehbcma4oa1vffckdca4na4ma4dba4a1w_1/1153.html