ある通商国家の滅亡
投稿者: equivilium 投稿日時: 2010/09/28 00:25 投稿番号: [16129 / 16505]
紀元前151年、カルタゴは二度の戦争で領土の大半を失ったにもかかわらず、ローマへの高額の賠償金を繰り上げて完済した。 しかし、過去連年ライバル・カルタゴに悩まされてきたローマにとっては、かかるカルタゴの驚異的な経済力や復興力は脅威であり、ローマ内ではカトーを始め、ローマへの将来の禍根を断つ為、いつかカルタゴを徹底的に破壊すべき、という意見が増え始めた。
ところで、その頃、ヌミディア王マシニッサは数度にわたりカルタゴ領土に国境侵害を繰り返し、町を襲撃したので、カルタゴはヌミディアの侵略に対抗すべく大規模な軍隊(25,000人の軍団)を召集したが、完敗してしまった。
その結果、ヌミディアとの間には、カルタゴは新たに50年間の賠償義務を負うことになったが、上述のような背景のあったローマは、ローマの承諾のない軍事行動は講和条約の違反とし、軍隊を召集、カルタゴに開戦を示唆した。カルタゴは低姿勢で折衝を重ね、カルタゴの良家子息300人をローマに人質に差し出す条件で、国土と自治を許可されるとの約束を得たが、人質送還が履行されると、今度は軍団をウティカに上陸させ、 全ての武器と防具とを引渡せと要求は加えられた。引渡しを終わると、ローマはさらに要求を加え、カルタゴの全市街を焼き払うので住民は少なくとも10マイルは内陸に移るようというカルタゴにとっては殆ど破滅的な事項を求めた。
カルタゴ市は、当時の都市国家カルタゴにとって数百年来の首都であり、同時に領土を大幅に縮小された同国にとって唯一の都市であり、しかも海洋貿易はカルタゴの繁栄と復興の源泉であった。したがって、それらを放棄してしかも港湾の建設不可能な内陸部に新たに一から都市を創始する、などは、都市国家カルタゴの消滅に等しく、カルタゴ人にとっては承諾の不可能な要求であった。既にカルタゴは完全に武装解除され丸裸同然の状態だったが、最後のローマの要求は拒否し、ローマ軍によるカルタゴ攻撃戦が始まった。これが第三次ポエニ戦争である。
開戦と同時に町は包囲されたが、紀元前149年に始まるこの包囲戦に、カルタゴは紀元前146年の春まで持ちこたえた。しかし、完全包囲下にあり、食料も他物資も補給のないカルタゴ側は次第に追い詰められ、最後は嵐も加勢し、スキピオ・アエミリアヌスによって町は陥落した。
包囲戦の後半には多くのカルタゴ人が餓死した。さらに戦いの最後の6日間には、多くの戦死者が出た。戦後に残されたカルタゴ人の数は5万人で、戦前に比べるとわずかな数だったが、全て奴隷として売られることになった。
町は、10日間から17日間ほどで手際よく焼き払われた。町の壁や建物、港は完全に破壊され、周辺の土地は作物が育たぬようにと塩が撒かれたといわれる(これについては確たる証拠はない)。
ところで、その頃、ヌミディア王マシニッサは数度にわたりカルタゴ領土に国境侵害を繰り返し、町を襲撃したので、カルタゴはヌミディアの侵略に対抗すべく大規模な軍隊(25,000人の軍団)を召集したが、完敗してしまった。
その結果、ヌミディアとの間には、カルタゴは新たに50年間の賠償義務を負うことになったが、上述のような背景のあったローマは、ローマの承諾のない軍事行動は講和条約の違反とし、軍隊を召集、カルタゴに開戦を示唆した。カルタゴは低姿勢で折衝を重ね、カルタゴの良家子息300人をローマに人質に差し出す条件で、国土と自治を許可されるとの約束を得たが、人質送還が履行されると、今度は軍団をウティカに上陸させ、 全ての武器と防具とを引渡せと要求は加えられた。引渡しを終わると、ローマはさらに要求を加え、カルタゴの全市街を焼き払うので住民は少なくとも10マイルは内陸に移るようというカルタゴにとっては殆ど破滅的な事項を求めた。
カルタゴ市は、当時の都市国家カルタゴにとって数百年来の首都であり、同時に領土を大幅に縮小された同国にとって唯一の都市であり、しかも海洋貿易はカルタゴの繁栄と復興の源泉であった。したがって、それらを放棄してしかも港湾の建設不可能な内陸部に新たに一から都市を創始する、などは、都市国家カルタゴの消滅に等しく、カルタゴ人にとっては承諾の不可能な要求であった。既にカルタゴは完全に武装解除され丸裸同然の状態だったが、最後のローマの要求は拒否し、ローマ軍によるカルタゴ攻撃戦が始まった。これが第三次ポエニ戦争である。
開戦と同時に町は包囲されたが、紀元前149年に始まるこの包囲戦に、カルタゴは紀元前146年の春まで持ちこたえた。しかし、完全包囲下にあり、食料も他物資も補給のないカルタゴ側は次第に追い詰められ、最後は嵐も加勢し、スキピオ・アエミリアヌスによって町は陥落した。
包囲戦の後半には多くのカルタゴ人が餓死した。さらに戦いの最後の6日間には、多くの戦死者が出た。戦後に残されたカルタゴ人の数は5万人で、戦前に比べるとわずかな数だったが、全て奴隷として売られることになった。
町は、10日間から17日間ほどで手際よく焼き払われた。町の壁や建物、港は完全に破壊され、周辺の土地は作物が育たぬようにと塩が撒かれたといわれる(これについては確たる証拠はない)。
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