反共保守は世界一の臆病で口だけ卑怯者
投稿者: minahidetyan 投稿日時: 2010/09/27 22:19 投稿番号: [15704 / 16505]
民間の人間でも、米に買収されるのを拒み強烈な拷問を受けて「国を売るくらいなら殺せ!」といったことは有名
満州略奪を繰り返した反共保守の連中は、自ら率先して買収に応じていた事は有名な史実だろ
終戦した次の日に、日本女性に売春させて機嫌を取る事を真っ先に考えたくらい
いの一番に鬼畜米英と言っていた相手のご機嫌取りが反共保守の実態
旗色悪ければ真っ先に、中国・北朝鮮のぽちになるのが反共保守の実態
>進駐軍特殊慰安施設協会(RAA)の創立
敗戦3日後に早くも慰安所設置を指示
敗戦から3日目の8月18日、内務省警保局長は全国の警察に無電で「外国軍駐屯地における慰安施設に関する内務省警保局長通牒」秘密指令を発し、占領軍専用の「慰安施設」を 特設するよう指示した。発案者は国務大臣近衛文麿。準備は最大限の慎重さで行い、施設に入れる女性の調達には地方の警察署長があたり、売春業者や関係者を 動員すべしとされた。朝鮮半島での慰安婦強制連行には慰安婦の証言に警察官がよく出て来るが、やはり政府から見ても警察が慰安所の担当であったようだ。
日本が負けて、米軍が上陸してくる。その対処準備にいろいろ考えることがありそうなものだが、まず考えたことが慰安所の設置だったという発想がスバラシイ。
翌19日、内閣副総理(近衛文麿)はこの案件の指揮を警視総監にみずからとってほしいと要請したが、その数日後には方針が変更され、 この種の施設の運営に日本政府が直接関与するのはまずいということになり、これ以後の政府の役割は、この事業を背後から支えることに変わった。慰安所の設置の仕方は、警察が指導して業者にやらせる方式で、各地に「特殊慰安施設協(RAA)」が設立された。東京で33ヶ所、ほかの約20の都市でも作られた。
警察から事業を請負った業者は、公認官庁として内務省、外務省などの名を連ねたチラシで「18〜25歳迄宿舎・被服・食糧支給」と広告、「昭和の唐人お吉、日本民族の血統を守る人柱」と訓辞した。応募の女性に「水商売」経験者は殆どなく、大半が貧しい身なりで、裸足の女性もいたという。面接で仕事の内容を知って大半の女性は去っていったが、 それでも発足前に東京で1360人の女性が登録した。
マッカーサーが厚木に降りたのが8月30日。開店は翌月の10日! わずか一月で慰安所は用意された。
営業時間は夜の6時から。料金はショートで20円、泊まりで200円であった。
慰安所には米兵がどっと押し寄せ大盛況。多い女性は1日に20人もの客をとった。それでも女が足りないから、あぶれた兵隊が暴れまわっていたようだ。
しかし、その女性不足もすぐに解決した。慰安婦募集と設備費などに、政府運営の勧業銀行は業者達に3000万円(現在の価値およそ70億円!)の前払い金を用意していたからだ。
広島などの例をみると、当時の金で県費36万円を追加計上し、「資金は立て替える、女は警察が募集する」と業者に持ちかけている。県警保安課は設営第一、設営第二、接遇第一、接遇第二と係をわけてまで慰安所開設に専念したほどだ。
このようにして、かなり大々的な慰安所設置が行われ、この結果、戦後の混乱の中で食料の確保にも事欠く家庭の女性たちを売春へと走らせることともなった。日本政府のサービスに応じて、アメリカ兵にも慰安所は大人気ではあったが、しかし、性病の蔓延によりGHQにより1946年1月21日に公娼廃止に関する覚書が出され、3月にはRAA所属の慰安所へ将兵が立入ることを禁止する命令が出され、RAAは閉鎖された。施設の廃止とともに追い出された女性たちには退職金もなかったという。3カ月で慰安所は閉鎖されたわけだが、この間に「政府の努力」で増加し、1万人に達した慰安婦たちは、路頭に迷い、非公認の街娼となって行った。いわゆるパンパン、パンスケである。
戦争に負けた瞬間自国の女を鬼畜米英と呼んでいたものに世話する
これが敗戦の日本の姿であり、そこが戦後のルーツ
満州略奪を繰り返した反共保守の連中は、自ら率先して買収に応じていた事は有名な史実だろ
終戦した次の日に、日本女性に売春させて機嫌を取る事を真っ先に考えたくらい
いの一番に鬼畜米英と言っていた相手のご機嫌取りが反共保守の実態
旗色悪ければ真っ先に、中国・北朝鮮のぽちになるのが反共保守の実態
>進駐軍特殊慰安施設協会(RAA)の創立
敗戦3日後に早くも慰安所設置を指示
敗戦から3日目の8月18日、内務省警保局長は全国の警察に無電で「外国軍駐屯地における慰安施設に関する内務省警保局長通牒」秘密指令を発し、占領軍専用の「慰安施設」を 特設するよう指示した。発案者は国務大臣近衛文麿。準備は最大限の慎重さで行い、施設に入れる女性の調達には地方の警察署長があたり、売春業者や関係者を 動員すべしとされた。朝鮮半島での慰安婦強制連行には慰安婦の証言に警察官がよく出て来るが、やはり政府から見ても警察が慰安所の担当であったようだ。
日本が負けて、米軍が上陸してくる。その対処準備にいろいろ考えることがありそうなものだが、まず考えたことが慰安所の設置だったという発想がスバラシイ。
翌19日、内閣副総理(近衛文麿)はこの案件の指揮を警視総監にみずからとってほしいと要請したが、その数日後には方針が変更され、 この種の施設の運営に日本政府が直接関与するのはまずいということになり、これ以後の政府の役割は、この事業を背後から支えることに変わった。慰安所の設置の仕方は、警察が指導して業者にやらせる方式で、各地に「特殊慰安施設協(RAA)」が設立された。東京で33ヶ所、ほかの約20の都市でも作られた。
警察から事業を請負った業者は、公認官庁として内務省、外務省などの名を連ねたチラシで「18〜25歳迄宿舎・被服・食糧支給」と広告、「昭和の唐人お吉、日本民族の血統を守る人柱」と訓辞した。応募の女性に「水商売」経験者は殆どなく、大半が貧しい身なりで、裸足の女性もいたという。面接で仕事の内容を知って大半の女性は去っていったが、 それでも発足前に東京で1360人の女性が登録した。
マッカーサーが厚木に降りたのが8月30日。開店は翌月の10日! わずか一月で慰安所は用意された。
営業時間は夜の6時から。料金はショートで20円、泊まりで200円であった。
慰安所には米兵がどっと押し寄せ大盛況。多い女性は1日に20人もの客をとった。それでも女が足りないから、あぶれた兵隊が暴れまわっていたようだ。
しかし、その女性不足もすぐに解決した。慰安婦募集と設備費などに、政府運営の勧業銀行は業者達に3000万円(現在の価値およそ70億円!)の前払い金を用意していたからだ。
広島などの例をみると、当時の金で県費36万円を追加計上し、「資金は立て替える、女は警察が募集する」と業者に持ちかけている。県警保安課は設営第一、設営第二、接遇第一、接遇第二と係をわけてまで慰安所開設に専念したほどだ。
このようにして、かなり大々的な慰安所設置が行われ、この結果、戦後の混乱の中で食料の確保にも事欠く家庭の女性たちを売春へと走らせることともなった。日本政府のサービスに応じて、アメリカ兵にも慰安所は大人気ではあったが、しかし、性病の蔓延によりGHQにより1946年1月21日に公娼廃止に関する覚書が出され、3月にはRAA所属の慰安所へ将兵が立入ることを禁止する命令が出され、RAAは閉鎖された。施設の廃止とともに追い出された女性たちには退職金もなかったという。3カ月で慰安所は閉鎖されたわけだが、この間に「政府の努力」で増加し、1万人に達した慰安婦たちは、路頭に迷い、非公認の街娼となって行った。いわゆるパンパン、パンスケである。
戦争に負けた瞬間自国の女を鬼畜米英と呼んでいたものに世話する
これが敗戦の日本の姿であり、そこが戦後のルーツ
これは メッセージ 15652 (minahidetyan さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/200000427/cf9qbbfjfdlla4gffckdca4xjsifc8a1fa4_1/15704.html