04年末めぐみさん生存情報か

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■空白の四世紀

投稿者: okidokinoa777 投稿日時: 2011/10/16 01:09 投稿番号: [894 / 1430]
3世紀の古墳時代に人口が爆発的増加をしていた九州は
邪馬台国の卑弥呼・台与の死後   戦乱で弱体
畿内とパワーバランスが逆転する。


朝鮮半島の南岸部の伽耶では4世紀を境に北九州産の遺品は消え
畿内品が増加する。


中国は五胡十六国の戦国時代
半島では新羅・百済が建国され高句麗との抗争が激化し始める。


本州では畿内が勢力を増していた−奈良盆地の三輪王朝。[①]
名前にイリが入るのが特徴   例:崇神(みまきいりひこ)。  
九州勢と同じ様に半島情勢を知っていた彼らは
畿内で国作り(纒向遺跡)を始めたのではないか。
また疫病をとめるため出雲の大国主をまつる。

出雲では魏が倭王(出雲の王か?)に送ったとされる
銅鏡もみつかっている。
魏が倭女王(邪馬台国の卑弥呼)に送った銅鏡の1年後の製造品だ。


纒向遺跡の遺物は九州産から関東産まで。
東海産が最も多く   北陸山陰産   河内産   吉備産と続くが
崇神天皇が成敗したといわれる
東海道・丹波・吉備・河内の謀反成敗と位置が合致。  
完成は3世紀中頃   最盛期は3世紀末〜4世紀前半。
4世紀後半には纒向遺跡は忽然と姿を消すが
再興した九州勢力が畿内に上陸し始めたと推測できる。


3世紀以前〔出雲系の三輪王朝以前〕の王は
葛城山近辺に移り住んだ神武が地元の娘を娶り
9代続いたといわれているが
九州の倭人が既に
紀元前2世紀頃から外国の文献に登場しており
畿内の様子は創作色がつよい日本書紀に限られている。

九州と畿内は紀元前2世紀〜4世紀まで
交流が頻繁にあったわけではなく別々に発達していたのだろう。
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